友人のコウノトリが、カーニバルの夜更けに行方不明になり、僕は明るい夜空の下で迷子になっていた。
神経症の彼は、一人では玄関の戸を開けられず、いつも僕にねだって取っ手を握らせる。
彼曰く、取っ手は錠前のように悪いものを遮るためにあるそうで、僕はコウノトリの災厄を身代わってやるために必要らしい。
僕が食い物につられて屋台に寄った矢先、恩知らずな友人はさっさと人妻に恋してしまった。今夜も誰かの美人を横どって、知らず子の父になることを趣味にしている友人を、誰かがコウノトリと呼ぶようになった。
とんだ災厄の塊だ。それは取っ手も握れまい。これ以上の悪事は、きっと無いだろうから。
温帯の蒸し暑さに巻かれながら、僕はうつむいて狭い路地に向かう。
どこもかしこも匂いが充満し、正直もう帰りたくなった。
音楽が遠のいて、肉の匂いや女の樟脳の匂いもなくなったら、コウノトリのことはすっかり忘れた。
気温が下がった隘路に、ぽつんと投げ出された靴を見つけた。
ベルベットの上等な女物である。だが片方だけではどうにもならない。
拾うのをやめて道を行く。ふと後ろに人気を感じ、振り返ると若い男が靴を拾って去った。金色の髪をした、ハンサムな男だった。これから靴が結んだロマンスを探しに行くのだろうか。
こうして僕は、いろんな彩からこぼれおちていく。
醜い僕は、たとえ靴を拾っても、質屋かせいぜい交番にしか縁が無い。女はみんな、ハンサムが拾った靴しか感謝しないだろう。
隘路の行き止まりに露店が出ている。
おかしい、ここは通り抜けられるはずだった。露店の向こうは星も見えない屑の山だ。
露店は酒瓶にあふれていた。酒瓶はくすんで、埃をかぶっている。が、商売はしているようで、明かりが布天井から二つ下がっていた。
埃の中から、人影が立ち上がり、僕の方を見る。
「酒屋です。そろそろ店じまいをしようかと思っておりましたが、お客さんが最後ですな」
僕はもう、何も食ったり飲んだりしたくなかった。首を横に振り、客で無いことを詫びて引き返そうとしたところ、主人が止めた。
「まあ、一杯だけ」
「はあ」
背の高いスツールを勧められ、仕方なく腰掛ける。脚の短い僕は、子供のように不安定になりながら、どうしようか迷った。
僕は酒が好きだが、詳しくはない。酒瓶の群れを眺めながら黙りこむと、美しいグラスに何かを注がれた。
「なまけもののバラ」と書いた瓶を、主人が指し示す。
「おもしろい名前ですね」
僕が言うと、主人は少し笑った。薄明かりの下、主人はとても気障に瓶を振る。
「いもむしのダンス、貴婦人の下履き、南国のパラソル、どれも入荷したばかりです」
「おかしな酒屋さんですね」
見ればどの瓶も、奇妙な名前のラベルのみだった。
「わたしの名前もおかしいんですよ。落花生といいます。双子だったもので、親がそうつけたそうです」
主人は低い声で言う。思わず顔を見るが、年齢がよく分からない、不思議な面立ちだ。
「僕はウサギと呼ばれています。前歯が長いから」
「耳も長い」
「そう。なのに、片方の耳は聞こえていないんですよ。ウサギと呼ばれている癖に」
「わたしも落花生という名であるのに、双子の兄は死にましてね、一粒種になっちまいましたよ」
「お互い難儀な名前をもらったものですね」
「ほんとうに、名前だけはどうしようもない」
僕はグラスの酒をあおった。厭な名前の話だが、どうしてだか今夜は気分がいい。一粒の落花生がいるなら、愛らしくないウサギがいたって構わんだろう、という気になっていた。
「そうだ、良い酒がありますよ」
主人がかがんで取り出したのは、さらに埃をかぶった古い酒だった。
「駿馬のたてがみ」と読めるラベルは、金色に輝いている。
「なんですか、足が速くなる酒?」
僕が笑うと、主人は否定した。
「残念ながら足には作用しませんが、馬のように逞しく美しくなれる夢を見られる酒、だそうですよ」
「夢」
「そうです。強い酒ですからね、寝酒にすればすぐに夢の中です」
「眠ってしまえば嫌なこともない。ウサギも馬になれますか」
「あなた次第でしょう」
「いいですね。なら少し頂いて、今晩の寝酒にします」
「では、お持ち帰り下さい」
僕は真新しい瓶に詰め替えてもらい、グラス一杯ぶんを持ち帰った。
夢くらい、どう見たって文句は言われないだろう。
夢の中では、靴くらい拾って差し上げられますように。
その晩、僕はグラスに移し替えた酒を少しずつ飲んだ。
強い酒だというのは本当で、一口目はむせた。が、飲むうちにほんのり甘く、さわやかな味に夢中になった。こんなことならもっと買ってくるんだった、と後悔しはじめたころ、うっとりとした眠気が訪れた。
しおれた毛布を嗅ぎながら、僕はそのまま眠りこんだ。
翌朝、窓辺に立つと、カーニバルの残骸が眼下にひろがっていた。祝日なので仕事もなく、窓を開くと朝の匂いに目が覚めた。
そういえば、なにか夢を見たような気がするが、覚えていない。あの酒の瓶がテーブルに転がっている。目ざめはいい。うまい酒だったなあ、と顔を洗いに洗面所に立つと、鏡の位置がずれている。とれたボタンの位置にまで下がった鏡を直そうと持ち上げてみると、そこに写り込んだ人の顔に飛びあがりそうになった。
ブロンドの、ハンサムな男が歯ブラシをくわえて呆然としているのだ。
歯列は整い、肌も白い。僕は自分の顔をさすった。すると鏡の中の男も頬をさすっていた。
パジャマは短く、足も腕もニョッキリと飛び出ている。
これはなんだろう。
夢なのだろうか。
しばらく、立ち尽くす。
もし夢なら、もう少し夢を見ていたかった。
鏡の中の、ハンサムな自分。
クローゼットをあけて、コウノトリのお下がりの服を探す。あててみると、身丈は合うようだ。さいわい靴はサイズが変わっていない。身支度を整えて、もう一度鏡を見た。
なんていう夢だろう。すばらしいじゃないか。
そのとき、足元に何かが触れた。見てみると、女物の靴だった。
片方だけの、ベルベット。
僕はそれを拾い上げ、朝の大通へと出かけた。
毎朝寄るカフェで、新聞をひろげて朝食をとる。新聞なんて読めたものじゃなかった。
まわりの人々は、どんなふうに僕をみているのだろう。こわごわ視線を上げると、ウェイトレスの若い娘と眼が合った。彼女はあわてて目をそらすと、ゆっくりとまた僕を見、やさしく微笑んだ。
いつもは香りのとんだ、古いコーヒーしか出さない彼女が、今朝ばかりは上等な豆を挽いてくれている。僕のために。
僕は、彼女の足元を見た。焦げ茶色の古びた靴は、両方そろっている。
「昨日の晩、靴を片方なくさなかった?」
思い切って声をかけた。そばかすのある頬を笑みでふくらませ、彼女は「いいえ」と答えた。
「そうやって口説くの?まるでシンデレラね」
不思議なことに、夢はいっこうにさめなかった。
僕は夜を待ち、また隘路の酒屋へ走った。
酒屋は同じ場所に同じようにあり、僕は安堵する。
「ご主人、ご主人、不思議なことがおきました」
僕がスツールに飛び込むように腰かけると、埃の中から店の主人が現れた。
「やあ、ウサギさん。たのしい夢の最中のようですな」
「しんじられません。まだ夢がさめません。どこからが夢なのでしょう」
「強い酒ですからね、まだ酔いもさめないのでしょう」
僕は自分の顔をさすりながら、ため息をついた。
「めずらしく大通を歩いたら、みんなが優しくしてくれたのです。女の子は僕に、デートの約束までしてくれました。こんな夢なら、ずっとみていたいものです」
主人はグラスに酒を注ぎ、淡々と言う。
「ならば、今晩も同じ酒を持って帰りますか。まだ残りがございますよ」
「ええ、ではまた下さい。美味い酒でもありました」
僕はうっとりと言う。今注がれた酒も美味いが、昨夜の酒はもっと美味かった。香りがよく、爽やかで、口当たりも・・・・。
「酒はね、飲みたいときに飲めば、それは美味いものなんですよ。ただ、あまり飲み過ぎると体に毒ですからね」
「ええ、そうですね。ほどほどにします」
「それはけっこう」
僕はまた、グラス一杯分を買い、家に帰った。
部屋に飛び込むなり、待ちきれなくて一気にあおる。喉を焼くような熱さのあと、清涼感が体を満たしていく。
やがて睡魔が忍び寄る。
「夢の中でも眠たくなるだなんて、おかしな話だな」
これでさめても文句は言えまい。
それくらい、素晴らしい一日だった。
ところが、目覚めても僕の体は昨日とかわらなかった。
それどころか、胸板が厚くなり、昨日よりスタイルが良くなった気さえする。
「なんていうことだ」
呟くと、声はテノール。いつものガサガサと高い声ではなくなっている。
頬を撫で、夢の中の夢に震えた。
部屋の片隅には、まだベルベットの靴が大人しく澄ましていた。
大通のカフェへ寄ると、ウェイトレスが微笑んで待っている。
そばかすがかわいらしい、と昨日は感じたのに、今になるとそのそばかすが彼女の欠点のように思えてきた。
明日はもっと、美しいウェイトレスのいる店へ行くことにしよう。
カーニバルから一か月ほどが過ぎ、僕はすっかり酒飲みになった。
あの酒屋からひと瓶まるごと酒を買い取り、昼夜問わず口にするようになった。
夢がさめてしまうことが恐ろしかった。
なぜといえば、僕には恋人ができたからだ。
美しい女性で、すばらしく優しく気の利く人だった。しかし、彼女には家庭があった。
秘密の恋をして、僕はまるで以前の僕が夢だったのではないかと思うようになった。
同時に、自分の部屋へ帰るのが煩わしく感じるようにもなった。
部屋には、今の体には合わない服や、しみったれた生活がこびりついている。
恋人の部屋に居座る日々は、まさに夢の生活といってよかった。
自分の部屋に帰る、あの扉が煩わしい。取っ手の向こうはもう、僕の生活とは矛盾した世界になっていた。
あの部屋に住む、矮小で偏屈で、歯並びのわるい小男にはもう、会いたくなかった。
あるとき、恋人に聞いてみた。
「カーニバルで、靴を片方なくさなかった?」
彼女は薄く笑って、首を振った。
「裸足で帰れる女なんて、ろくなものじゃないわ。忘れておしまいなさい」
彼女はベルベットの靴を何足も持っていたが、僕はその中に片方足らない靴があることを知っていた。
ロマンスは、言わないほうが素敵なこともある。
僕は彼女の言葉に頷いた。
彼女の部屋からの帰り道、僕は隘路の酒屋に立ち寄った。少し足もとがふらつくのは、あの酒のせいだろう。酒屋が揺れているようにも見える。
「ご主人」
「やあ、ウサギさん」
僕は自嘲して笑った。
「やめてください。ぼくはもう、ウザギなんかじゃありません」
「ほう、ではなんとお呼びすればよろしいんで」
僕は、最近人に呼ばれている名を思い出した。
「最近では、コウノトリと呼ばれています。女性を孕ますというので、誰かがやっかんでつけたようです」
「それはまた、なんともおかしな名前ですな」
僕は溜息をつく。
「このごろは不安なのです。本当の僕を、僕はもう消してしまいたいような気持ちになっている。あの酒には感謝をしていますが・・・・」
主人はグラスを拭きながら、僕の話を聞いている。
「僕はまるで魔法のように様変わりしてしまって、けれど元に戻るのは恐ろしくって・・・・。まるでシンデレラですよ。楽しい時間が終わるのを怯えて待っている。酒浸りにはなるまいと、誓っていたというのに。昼間から飲んでいますから、仕事も手につきませんし」
「では、今は不幸ですかね」
「いいえ、・・・・あ・・・・わかりません。幸せですが、不幸なのかもしれません」
「複雑なことをおっしゃる。不思議ですねえ」
「ええ、不思議です」
「いいや、ちがいますぜ」
主人は冷たい目をして僕に言った。
「あなたはなんにも変っちゃいません。初めてこの店に来た時から、なんにも」
主人のおかしな言葉に、僕は引きつった笑顔になっていただろう。
「そんな・・・・なにを言いますか。僕はこんなに変わったじゃありませんか。ハンサムになり、女性とも話せて、いろんな友人も出来て・・・・以前の僕とは別人になったじゃありませんか」
「何が変わったのです。初めていらしたとき、そこの先で靴を拾い、そこのスツールに腰掛け、おかしな名前の話をなさったじゃありませんか。そうだ。変わったと言えば名前くらいなものですよ」
靴・・・?靴とはいったいなんのことだ。
「馬鹿を言わないでください。たしかにあのとき、僕は靴を見つけましたが、拾ったのは別の男です。ハンサムで背の高い、金髪の・・・・」
主人は腕を組んで僕に向き直り、ゆっくりと言った。
「それは、あなたのことじゃありませんか。コウノトリさん」
コウノトリ。
どこかできいた名前だ。そんな友人が居なかったか。
そうだ。カーニバルの夜、行方が分からなくなった友人だ。
彼はいったいどこに行ってしまったのだ。
「なにをブツブツと。ああ、だいぶ飲んでいますね。もうお帰りなさい」
「そんな」
「ほどほどになさるというお約束でしたよ。さあ、もう店じまいです」
「あ」
主人の顔がさかさまになったと同時に、世界がまっくろに染まった。
翌朝、窓辺に立つと、カーニバルの残骸が眼下にひろがっていた。祝日なので仕事もなく、窓を開くと朝の匂いに目が覚めた。
そういえば、なにか夢を見たような気がするが、覚えていない。
酒瓶がテーブルに転がっている。さてはまた飲み過ぎたのだろうか。
僕は痛む頭をおさえ、洗面所に立つ。
冴えない顔色の男が今日もこちらを見ている。
歯を磨きながら思い出す。昨日拾った靴をどうしようか。質屋か交番か。
カフェに向かいながらそんなことを考える。
ウェイトレスは古いコーヒーを出し、明日の都合を聞いてくる。
彼女は僕の部屋に来たいというが、部屋にはまだ女物の靴が転がっている。あれをなんとかしなければ、彼女を上がらせることはできない。きっとカンカンに怒ってしまうだろう。
彼女の足元には、プレゼントした焦げ茶色の靴が並んでいる。ずいぶん古くなったものだなあと思い、新しい靴を贈ることに決めた。
「どうしたの、靴なんてそんなに見て」
「いいや、べつに」
「じゃあね、アレックス。また明日の夕方」
「はいはい」
僕は代金を置いて、立ち上がった。
すれ違った美人が僕に手を振ったように見えたが、首をすくめてやり過ごす。
カーニバルのあとは、みんなどこも浮足立っている。
隘路を抜けて、部屋に戻る。
不思議なことに、靴はもうどこにもなかった。