「決まった決まった。母さん、T医大との契約がきまったぞ」
父が嬉しさのあまり台所に突っ込んでいく姿が見えた。母は文字通り手放しで喜び、落ちたお玉が床にぶつかる音がした。
「梢、梢!そんなところでなにをジィっとしているんだよ。さあ、お祝いだよ。母さんに熱いのをつけてもらったんだ、注いでおくれよ」
「おとうさん、おめでとう」
自ら徳利とお猪口を持って、居間の炬燵に太った体をねじ込むと、驚いた猫が炬燵から飛び出してきた。
私が徳利を持つと、父は涙ぐんでお猪口をとる。
「ああ、夢のようだなあ。苦節30年、小さな薬屋から始めて、休みという休みもなく夫婦で働き、やっとあのT医大との契約!とうとう製薬会社としての大きな成功だ!」
私は溜息を飲みこみながら言う。
「おとうさんの「苦節30年」は、もう耳にタコだわ!タコが悪化して、もうひとつ耳が出来てしまいそう!」
「あはは、じゃあ父さんのところの薬を使うといい。どんなタコだってたちまち」
「いいったら。さ、熱いうちにどうぞ」
「おっとと」
親子で炬燵にあたりながら、夕飯までの時間を過ごすのが、いつもの決まりだった。
そこに母がおつまみをこしらえて運んでくる。
「それにしても、この家に越してきてからというものトントン拍子ね。諦めていた子供・・・梢も生まれて、会社もどんどん大きくなって」
母はお盆を撫でまわしながら遠い目をする。父は母の肩を抱き、赤べこのように首を縦に振る。
私は幸せそうな両親を見て、なんとも言えない気持ちになった。
我が家はここ18年、つまり私が生まれてから・・・もっといえばこの家に住むようになってから、幸せの絶頂続きなのだ。
両親にはずっと子供ができず、10年してあきらめてこの郊外にある中古の一軒家を買った。
子供がいないことを前提で買った家は、子供部屋もなく、一階は居間と両親の寝室、台所と風呂、二階には父の書斎と和室がある、夫婦ふたりにちょうどいい家だった。
ところが、ここに住み始めてから、母が妊娠した。
両親の喜びようはたとえようもなかったと、今も元気な祖母は涙ながらに教えてくれた。
したがって、父の書斎に予定されていた部屋は娘にとられ、客間用の和室に父の蔵書やらなんやらが運び込まれたのだった。
父が結婚前に興した薬屋は、ノンビリした父にはいい会社だったけれど、とても成功とはいえない厳しい経営状態だったという。
それが、この家に越してきてから、薬屋の周りにどんどん大きな病院が建てられ、処方箋もたくさん扱うようになり、そのうちに薬屋に研究室が作られ、大学を出た従業員が増え、製薬会社を再起業した。
たった18年で、従業員数は何百人にもなり、父はなんのスキャンダルもなく今に至っている。
私だってもうすぐ就職を考えなければならない年齢だし、父の会社の成長速度の凄まじさは分かっているつもりだった。
そして、なぜそんなに我が家が大成功をおさめているのかも。
「さあ、お夕飯ですよ。梢、わぁちゃんを呼んでちょうだい」
「おかあさん、わぁちゃんだなんて呼んだらあの子嫌がるわよ。このごろ難しいんだから、あの子」
「はいはい」
私は二階の和室まで、彼女を迎えに行く。
「「わぁちゃん」、ごはんですって」
声をかけると、押入れが勢いよく開く。
「やめてよぉ、わぁちゃんって呼ぶの!子供みたい!」
出て来たのは、おかっぱ頭をした女の子だ。見た目ではせいぜい7~8歳である。
「じゃあなんて呼べばいいか、おかあさんに自分で言ってちょうだいよ」
「そうね・・・ホナミって呼んで!」
「ホナミって、流行りの女優の名前じゃない。昨日は歌手のマイがいいって言ってた」
「いいの。今日からホナミなの!」
「・・・・・へんな座敷わらしねえ・・・・」
彼女は頬を膨らませると、空気の玉のように跳ねながら階段を降りて行った。
そう、うちには座敷わらしがいる。
なんでも、この家を買ったときから押入れの中に住みついていたという話である。
越してきてすぐ、布団をしまおうと母がふすまを開いたら、中で彼女が昼寝をしていたらしい。母は心底驚いた。が、生来ノンビリした夫婦である。自分のことを座敷わらしだというおかしな女の子を、まるで本当の子供のように可愛がることにしたらしい。
母いわく「だって縁起がいいって聞くし、はじめっからこの家に住んでいたんですもの、追い出すなんてこちらの勝手すぎるわ」だ、そうである。
最近では着物を着ずに、母が作った洋服を好んでいて、本当にただの子供のようだ。今日も母の手編みのセーターと、私のお下がりのスカートという出で立ちだ。
居間に戻ると、炬燵に父、母、座敷わらしがすでに着いていて、よせ鍋の湯気が立ち込めていた。
「今日はね、奮発していいお豆腐。わぁちゃん好きでしょう」
「やった。あたし、トーフ好き。おかあさんも好き」
なんて家族だろう。私も苦笑しながら炬燵にあたる。
「座敷わらしって、ごはん食べても大丈夫なの?」
私が聞くと、父と母はきょとんとした顔をする。
「だってなあ、このとおり食べてるし・・・。いいんじゃないか」
「そうねえ、おいしいって言ってくれてるしねえ」
「いいなら、いいんだけど」
当の本人は、湯気に顔を赤くしながら豆腐を食べている。
私も豆腐をとる。三軒隣の豆腐屋さんの豆腐は、味が濃くておいしい。この豆腐は、私の好物でもある。
実は、私は10歳くらいになるまで、この座敷わらしが人間だと思っていた。
生まれたころから一緒に暮らしているし、親戚の子かなにかだと疑ることもなかった。
ただ、友達を家に呼んで彼女を紹介すると、友達はみな困ったような顔をしていた。
家族以外に、彼女が見える人間はいなかった。
薄々と、彼女が特別な存在であることがわかった。
そして、いつしか私の背丈が彼女を追い越した。彼女はいつまでたっても、同じ身長だったし、なにも変わらなかった。
両親はわけ隔てない。座敷わらしに対しても、いたずらをすれば叱る。良いことをすれば褒める。私と座敷わらしを差別することはなかったかわりに、彼女を神様のように扱うこともしなかった。
いつもどおりの「4人」の食事を終えると、父はお酒のためにウトウトと座椅子でのびてしまい、母と私は片づけものをする。座敷わらしはテレビを見ているか、気が向けば洗った皿を拭いている。
今日は何がどうしたのか、座敷わらしは私の背中を廊下のように駆けあがって、肩にまとわりついていた。彼女はなぜだかまったく重くない。子ネズミほどの感覚でしかなかった。
「どうしたのよ」
私がわざと肩を揺すると、彼女はますますしがみついて、鼻をよせて私の首筋の匂いを嗅いでいる。くすぐったい。
「こずえ、なんかいい匂いがする!」
私と一緒に皿を洗っていた母が、笑顔で言う。
「わぁちゃんも女の子ね。今日は梢、香水つけてるのよね」
「うん。ちょっと出かけてきたから」
座敷わらしはスンスンと鼻をならして嗅ぎ、やがてぱっと離れた。
「いいな、こずえ。いいな。あたしも香水つけたい。こずえ、今日どこに行ったの?」
「わかったわよ、そんなにいっぺんに聞かないでよ。これが終わったらね」
「はやく終って!テレビ見てるから!」
言い終わるやいなや、テレビの前で歌番組にかじりつく。
私は皿を拭きながら、小声で母に言う。
「なんだか、人間みたいになってきちゃったね」
母は少し考えてから答える。
「梢が大人っぽくなってきたからでしょうね」
「そりゃそうよ。だって18だもん」
「うらやましいのよ」
「へんなの」
「そうかしら」
「ねえ、おかあさん」
「なあに」
「良いことがたくさん起きるのはやっぱり、あの子のおかげよね」
「そうかもね」
「あの子、うちの守り神なのよね。人間みたいになってしまって、本当にいいのかしら」
「よくはないでしょうね」
「・・・・いいの?あの子がもし人間になってしまったら、こんなに良いことも続かないわよ」
「そうかもね」
「おかあさん」
「さ、おわり」
母が蛇口を捻り、水が止まると、父の寝言が聞こえてきた。
「・・・・やったぞ・・・・大成功だ・・・・」
「これに、これを合わせて、このアクセサリーを着けるの」
今日の戦利品を、座敷わらしに見せた。少ないアルバイト代で、どうにか買った流行りの洋服。ちょっと露出が多いけれど、気に入っている。
「いいなー!あたしも着たーい!」
目を輝かせてそれらを手に取ると、彼女はふうっと溜息をついた。
「でも、こんなチビじゃ大き過ぎるもんなあ。おかあさんに言って、似てるの作ってもらう」
「そうね、これはまだ着られないわね」
私も肩をすくめる。こんなことなら、もっと節約して子供服売り場も見てくるんだった。
しょぼんとした彼女を見るのが、最近少し辛かった。
「・・・ん。あれ。こずえ、なんだかいつもより目がおっきい」
「ああ、お化粧したのよ。すこし目がおっきく見えるでしょ。って、失礼よ」
座敷わらしはしきりに私の顔を覗き込む。
「ねえこずえ、あたしにもお化粧おしえてよ。あたしもキレイになりたい」
「ええっ。ちょっと、うん、まあいいわよ、いいんだけど・・・・。座敷わらしじゃなくなっちゃうわよ、ほんとうに」
「いい。あたし、こずえみたくなりたい」
「えーっ。・・・しょうがないなあ」
彼女を向いに座らせ、私は自分のメイク道具を持ってくる。
「わあ、こんなにあるの」
「いいの。うるさいわね」
彼女のふっくらした、ソバカスすらもない真白な肌に、頬紅を塗る。目のまわりにアイラインを引き、睫毛も長くさせる。
しばらくすると、子供モデルのような目のパッチリした美少女・・・もとい、美座敷わらしが出来上がった。
手鏡を渡しうながすと、彼女は怖々と自分の顔を硝子越しに見た。
「キレーイ!!すごーい!わたしキレイ!!」
「うん、われながらいい腕前だわ。私、化粧品会社に勤めようかしら」
「ねえっねえっ、明日もして!」
「・・・・時間があればね」
「あ~いいなあ。すごい・・・・」
その晩、私の手鏡は帰ってこなかった。
翌日、大学の講義は一科目だけで、私はぶらぶらと寄り道をしながら帰った。
当然家に父はおらず、母は買い物に出かけており、家には私と座敷わらしだけだった。
「ただいまーっ。ホナミちゃーん。マイちゃんだったかなー?」
呼びながら、二階の和室に行くと、座敷わらしはまだ手鏡をもったまま自分の顔を見つめていた。
「あ!顔を洗わないで寝たの?だめじゃない」
私が注意をすると、彼女は振り返った。
「だってえ、キレイなのにもったいないんだもん・・・」
「あなた・・・」
私は絶句してしまった。
座敷わらしが大きくなっている。
昨日まで7歳くらいに見えていたのが、今は12~13歳くらい・・・つまり中学生くらいに見える。手足が長くなり、セーターからもスカートからもニョッキリと、成長期の女の子の脂肪の少ない肌が覗いていた。
「・・・・どうしちゃったのよ」
「ねえこずえ、あたし、こずえみたいになりたいの。こんな髪はいや!びょういんで切ってもらいたいな。そんで、こずえみたいに茶色にしたい」
私は頭を抱えた。
「茶髪の座敷わらしなんて聞いたことないわよ。あんたはそれが一番似合ってるの。それと、病院じゃなくて美容院よ」
「だって!ホナミもマイも、黄色や茶色の髪してるし、こんな短くない!もっとクリクリフワフワしててかわいいもん」
返答に困る。
たしかに、私や女優や歌手はよくて、彼女だけはいけないというのは道理が通らない。
いやいや、けれど彼女は人間じゃない。恐れ多くも神様らしい。私の記憶では、茶髪にパーマの弁天様やリーゼントの大黒様なんて見たことも聞いたことも無い。
でも、それを言ったところで彼女の理解を得られるとも思えない。
「まいっちゃったなあ」
「まいっちゃってるのは、あたしだもん。もうずっとずっとおんなじ格好のつまらなさは、人間のこずえにはわかんないんだ」
そう言うと、大きな目からポツリと涙を落す。私はぎょっとして駆け寄る。
「ああもう、アイラインが滲んでパンダの子みたいよ。まったく。・・・私には何とも言えないわ、おかあさんに相談してみようよ」
「うん・・・・」
しばらく、なだめたりすかしたりしていると、母が買い物から帰ってきた。
座敷わらしは瞬時に玄関まで飛んでいく。私もつられて階段を駆け降りる。
「ただいま、あら二人でお出迎えありがとう」
「おかあさん!」
座敷わらしが母に飛びつく。母は彼女の頭を撫でながら、目を丸くしていた。
「わぁちゃん、ずいぶん大きくなったのねえ。びっくり」
「びっくり、じゃないわよ。どうするの」
母は一瞬驚いた様子だったが、買い物かごを置くとゆっくりとサンダルを脱ぐ。まるで何事も無かったかのように。
「どうするもこうするも、大きくなりたかったから、なったんでしょう」
「でも・・・・」
「うんうん、わかった。ちゃんとお話しましょうね。そのまえに梢、挽肉を冷蔵庫に入れてちょうだい。わぁちゃんはアサリを塩水に浸けてちょうだい。よろしくね」
私と座敷わらしは、出鼻を挫かれすごすごと台所に向かう。
挽肉をしまうと、棚から塩をとる。座敷わらしはボウルに水を張り、アサリをパックからザラザラと移していた。
「あ。アサリから目が出た」
「目じゃないのよ。そこから砂を吐くの。はい、塩を入れたわよ。ゴリゴリこすって」
貝殻どうしをこすってぬめりをとる。台所のシンクに二人で並ぶと、身長差は10センチくらいだ。やっぱり相当成長している。
仕事を終えて、彼女の手をふいてやる。二人で居間に戻ると、母がみかんをすすめながら、炬燵にあたるよう言った。
「さてと。どうしようね、わぁちゃん。わぁちゃんはどうして急に大きくなっちゃったのかな」
母はみかんをむきながら、優しく聞いた。私は押し黙って、じっと彼女を見る。
「こずえみたいになりたいなーって思って、ずっとそう思ってたんだけど、昨日はとってもそういう気持ちになっちゃって、気がついたら大きくなってたの」
「そうなの」
「うん」
沈黙。庭で雀が鳴いているのが聞こえる。
「あのね、わぁちゃん。座敷わらしって、子供の神様なんだよ。大きくなったら、座敷わらしじゃなくなってしまうかもね。そうしたら、たいへんだね」
母の言葉に、座敷わらしはキッと顔を上げる。
「それでもいいよ!あたし、人間になるもの!」
「そんな簡単に!」
思わず口を挟むと、母が炬燵の中で私の膝に触れた。私はまた黙る。
「わかりました。わぁちゃんが好きなようにするといいよ。おかあさん、反対しないよ」
「おかあさん」
座敷わらしと私が同時に言う。母は笑っている。
「二人ともそっくり。いいこと、わぁちゃんのことに、おかあさんとおとうさんは何も反対できないわ。反対しようとも思っていないし。二人が元気なら、それでいいから」
「やったー!!」
喜ぶ彼女の姿を見ながら、私は不安になる。本当に父は反対しないのだろうか。彼女が人間になるというのであれば、今まで座敷わらしから与えられてきた恩恵は、もうなくなってしまうのではないだろうか。
日が暮れて父が帰宅すると、私は熱燗を持って父が炬燵にあたるのを待った。
「お、用意がいいな。ハァ今日も疲れた。一杯おくれ」
「はいどうぞ。ねえおとうさん」
私は座敷わらしが二階の和室に閉じこもっているうちに、と、焦りながら今日の出来事を伝えた。
父は腕組をして聞いている。
「そんなことがあったのか。まあ、時間の問題だったよ。いいんじゃないか、あの子の好きにさせたら」
私は呆気にとられる。
「でも、あの子が人間になって、ご利益がなくなっちゃったら、おとうさんの会社もどうにかなっちゃうかもしれないわよ」
父は私の言葉に笑った。
「たしかに、あの子は今までこの家にたくさんの幸せをくれたね。とっても感謝している。けどね、神様の意思を人間がどうこうさせようっていうのは、無理な話なんだ。バチあたりだよ。それに、会社だって、おとうさんがなんにも努力しなかったわけじゃないんだよ。大丈夫、なんとかなるから」
「・・・・そうね、ごめんなさい。けど、神様が人間になるのは、いけないことなんじゃないのかしら。私、それも不安なの。無理に人間の暮らしを押しつけてきたんじゃないかって」
「そうだね、それは反省しなくちゃいけないかもしれないね。でも今更それを変えようとするのは、かわいそうなことになるんじゃないかな。まあ大丈夫さ。あの子は子供みたいだけど、おとうさんたちよりずっと長く生きていて、いろんなことを自分で考えているんだ。任せようじゃないか」
私は、父によりかかった。
なんだか、いろいろ考えすぎてしまったようだ。
よその神様がどう扱われているのかは知らないけれど、この家ではあの子はもう家族なのだ。
家族が、なにか大事なことを決めたのだ。それを、ご利益がどうとか言っていた自分が、なんだか情けなく思えた。
その後も、平和な夕食を家族4人でたいらげた。
一番多く食べていたのは、座敷わらしだった。
それから数年し、私は大人になっていた。
大学で知り合った彼と、来春結婚することになった。親切でいくらか変わりものの彼は、両親に挨拶をしに我が家へ上がるなり、私と瓜二つに成長した座敷わらしに面食らった様子だった。彼女は今や、着たがっていた流行りの服を着て、髪を巻き、化粧も上手に出来るようになっていた。
私と座敷わらしは面白がって、彼をずいぶんからかった。
「梢が双子だったなんて、聞いてなかった」
彼はそう言うと、まじまじと私たちを見た。座敷わらしはもう、ほかの人間にも見えるようになっていた。というより、座敷わらしをすっかり廃業してしまった。
彼が帰ると、彼女はにやにや笑いながら、私を小突く。
「こずえ、面食いなんだね」
「あなたほどじゃないわよ」
久しぶりの来客に、なんとなく物の少なくなった居間で、家族全員浮かれた状態のままそんな話をして笑い合った。
父は煙草を吸いながら、「あ~緊張した」とブツブツ言っている。母は私のアルバムをめくり、昔話をはじめる。
座敷わらしがこの家の二人目の娘として存在してから、父の会社は案の定傾き、社員は半数に減ったがなんとかやっている。母は一度病気をしたが、今はすっかり元気になった。
いろいろあったが、それが普通なのだろう。
急に母が、嗚咽をもらした。
「梢がいなくなっちゃうんだなあって、なんだか実感がわいてきちゃった」
少し痩せた母が、子供のころの私の写真を眺めながらポロポロと涙をこぼした。
父も、紫煙に巻かれてか、涙ぐんでいるのが分かった。
座敷わらしだった私の妹は、母に寄り添い、一緒に泣いた。
「おかあさん、泣かないでよ」
私までなんだか鼻の奥がツンとして、母をまともに見られない。
「こうやって、子供は巣立っていくんだよ。子供とずっと一緒になんて、いられるわけがないじゃないか」
父は優しく言うと、煙草を揉み消す。
「子供のころのこずえ、かわいいね」
母と一緒にアルバムを手繰る、私と瓜二つの妹に促され、幼い少女の写真をながめる。
母は、私の手を握りしめ、おめでとうね、と何度も言った。
そして妹の手を重ねて握り直す。
「わあちゃんも梢も、おかあさんたちの大切な子供。いつだって助けてあげる。いつだって家族を頼っていいんだからね。おかあさんは、いつまでたっても、あなたたちのおかあさんだからね」
私と妹は、目を赤くしながら母にしがみついた。
その夜、私の部屋に居座って帰ろうとしない妹の様子がおかしいのに気づき、コーヒーを飲みながらなんとはなしに話をした。
「どうかしたの」
声をかけると、彼女はしきりに何かを考えているようだった。
「ねえ、こずえ。子供が子供じゃなくなるって、嬉しいけど寂しいことなんだね」
「・・・・そうだね」
きっと、そういう話になるのだろうとは思っていた。私自身も空虚な高揚が体の芯に渦巻いて、眠れなさそうな気がしていたので、一緒にしんみりとコーヒーを飲む。
「あんたがいるもの。おとうさんもおかあさんも、寂しくなんかないわ」
「でもあたしは、大人になっちゃった。いつかおとうさんおかあさんと離れてしまうかもしれないもん」
「でも、それは仕方がないわ」
「・・・・ねえこずえ」
「なあに」
「おとうさんやおかあさんやあたしを置いて、どっか行っちゃうのは寂しいよ」
「・・・ごめんね」
「ううん。ごめん。おめでとう」
「変な子」
妹は、泣き笑いのような難しい表情をしながら、私をまっすぐに見つめた。
このとき、私はまだ気がつかなかった。
彼女がまたひとつ、なにか大事なことを決めたのだということに。
翌朝、私の隣で眠っていた彼女は、目覚めたときにはすっかり小さな女の子に戻ってしまっていた。
披露宴の日、私から一番遠い親族席には、ひとつの空席があった。
不思議なことに、空席にも料理は運ばれ、気がつくとその料理はすっかりなくなっていた。
母はときおり、誰もいない席に話しかけたり、ハンカチを取り出して世話を焼いている様子だ。
周囲の人々は、それを奇妙な目で見ていた。
けれど、高砂の私からはよく見えていた。
おかっぱ頭の子供が、食べづらそうにしてナイフやフォークと格闘している様子が。
「やっぱり和食にすればよかったかしら」
私が呟くと、隣で彼が不思議そうに聞き返す。私は苦笑して「なんでもないわ」と返す。
我が家の座敷わらしは、ステーキとフォアグラを頬張りながら、オレンジジュースをこぼしている。
まったくなんて神様だろう。
そして、なんて家族だろう。
私は知らず微笑みながら、彼女に感謝した。
今度お礼に、押入れをリフォームしてあげよう。
きっと、洋服よりもお化粧よりも、ずっと喜んでもらえるはずだから。
そのとき、彼女がにっと笑ったのが見えた。
あどけないその笑みを見て、ふと思った。
ひょっとして、彼女の恩恵を一番にあずかっていたのは、他の誰でもなく、私だったのかもしれない、と。
たくさんの「おめでとう」に包まれながら、私はそう感じていた。