蝶々

 

 幼い頃、蝶々を捕まえて集めることが好きだった。
まるで紙の様に薄く、中でも仄かな色合いをした羽を持つ蝶々をとくに気に入っていた。私の好みは大変に偏っており、絵本などで見掛ける色鮮やかな蝶々にはさほど興味をそそられなかった。いや、と言うよりも嫌ってすらいた。
そもそも私は昔から虫と言う生物は大嫌いであった。それだのに、あの頃、まさに少年時代と呼べたあの頃に、私はどうしたわけか、蝶々を追っていた。それはとても小さくて、ひどく濃い情景の断片に思える。釈然とせぬのは、紗が掛かった古い古い記憶のせいだけだと、ただそれだけであるのだと、どうして納得できずにいるのかと言うこと。
 ああ。
なぜこんなことを今になって思い出したのだろう。
 
 
 鼓膜をつんざく様な金属音の後、耳の奥から鼻にかけて鈍い痛みが起こった。ごう、と車窓は暗闇になって風を切った音が消えていく。
がたがた揺れる椅子のせいで背中が時折浮き、私は我に帰った。俯いていた首の後ろが凝ってしまって、顔を上げようとし、目前にある柔らかな生地のふくらみが目に入った。どうやらさほど時間は経っていないらしいことが分かり、やや安堵する。
正面の席に座っているご婦人は、以前と同じ様な姿勢のまま読書を続け、列車は滞りなく線路をひた走る。隋道を抜けるまでの暗闇はただ日が届かぬだけであり、私は車窓からの日和にあてられてうたた寝をしていただけ。それ以上の説明はおそらく必要が無いと思われる、現実の続きがそこにある。
 尻の感覚が無くなっていることに気がつき、ビロード生地の上で浅く腰掛け直すと、正面のご婦人がちらと顔を上げた。私の会釈に柔和な笑みが返ってくると、ますます現実に引き戻されていくのを感じた。
ごう、ともう一度風を裂く音がして、あたりは光で溢れた。隋道の先は豊かな緑の風景が起伏をもって広がっていた。
 私の肩を燦燦と冬の光が温めていく。影が伸びて床の木目の上で踊った。光線の中に浮く埃が舞い上がってきらめく。もう太陽は随分と高く上がったらしい。同じ様に温まった窓のサッシに肘を着き、なだらかな山間の向こうになるビルジングの群れを見た。急激な復興に伴って、恐ろしい速さで立ち現れていくビルジングたちは鋭角な照り返しを放つが、どっこい手前になるそもそもの町自体はこうして田畑が続く光景のままで、それが今の時代を顕著に表している様に思えてならなくなる。
 水田は眼下に広がり、区切る畦道に猛然と砂埃が舞い上がったのを、流れていく視界の中で見た。遠くに荷車を引いた復員服姿の若者が、こちらを仰ぎ見た気がしたけれど、列車はそんな景色も置いていく。おさげ髪の女学生が私たち乗客に手を振っているのも見えた。私が振り返そうとする間もなく、彼女は背中を見せてしまった。次第に遠くなる彼女の背が繁茂する木々に隠されて消えるまで、網膜に残るその白い首筋を追っていた。
 ・・・はて。いったい私は何の夢を見ていたのだったか。
 瞼を閉じてみても視界はおぼろげに明るい。歳のせいか近頃めっきり記憶が薄れてしまった感がある。おそらくそれは手の平から零れおつる白砂のごとき速さで消えていくものなのだろうが、当の本人である私にはその質量も、失っていく速度も大切さも、ひどく曖昧になりつつあった。今ではただその、ああ消えてゆく、という感覚だけが嫌にはっきりと感じられる。
 どこかの花弁であったか。さもその様な風合いを持った何かであったか。
ただの夢にしてはあでやかであった様な。そんな光景である。
今の今まで見ていた夢の中身を思い起こせずにいると言うのも何やら情けないが、どうにもそれ以上に引っ掛かりを感じるのが不思議であった。
 「ああ・・・」
思わず短くうめいた。頭がじんと熱くなる。
 目を開き、右手になる通路を挟んだ向こうを見やると、いつの間にか乗客が増えていた。
私の側から差し込む日差しに浮き上がる陰影に目を凝らすと、それは確かに一人の人間で、紺色の上着を来た少年だと言うことが分かった。ただ、俯き加減になった彼の顔までは判然としなかったけれども、きちんと腰掛けた姿勢の良い少年の耳の下から頤にかけての線だけは妙にはっきりと見て取れた。
手足の長さと身長を計り見るかぎり、年の頃は十と四五くらいであろうか。だが、近年の子供は発育が良いから、ひょっとしたら私の目測より幾許か年少なのやもしれぬ。窓枠に掛けた片方の手の甲の瑞々しさが輝く様で、思わずほっと息をつく。比べるべくも無い私の皺だらけの皮膚も、果たしてあんなに美しい頃があったのか。
 少年の掛けた手は、よほど力をこめているのか、時折白っぽく爪の先を染めた。そして不意に、彼は車窓の外を見て身を乗り出した。
後頭部をこちらに見せて、熱心に外を眺める彼はいったい何に興味を惹かれているのだろう。サッシに掛かる指の先が、うっすらと桃色に鬱血していく様に吸い寄せられる。爪の色が変わる様を。
 そうであった。あの爪。ちょうどあんな様な色合いをした、つがいの二枚羽。
蝶々だ。小さな小さな紙吹雪にも似たあれは、蝶々だ。間違いの無い私の記憶である。
 幼い頃集めた蝶々の標本。それを作ることが何よりも好きであった。ひとつでも多く集めたくて、毎日毎日草原を駆けた。
あれは私の子供の時分のこと。あんなにも集めたたくさんの蝶々を、いったいなぜ私は忘れてしまっていたのか。あの爪のような仄かな色合いをした蝶々たちを。しかし、それでは何かがおかしい。
 私は虫なんぞ大嫌いなのだから。私の少年時代は他の少年たちのそれと大きく違うことがいくつかあった。ほかの子供らが目の色を変えて追っていたカブト虫やらクワガタなぞに、私は一切の興味を持つことは無かった。正しくは持てなかった、と言うべきやもしれぬ。
それは昆虫だの何だの問題では無くて、一見して虫だと判断し得るもの全てに、であった。無論、今でもそれは変わらない。
蜘蛛やら百足やらの腹を見ては卒倒し、周囲からからかわれることもしばしばで、現在でもその癖は何ら回復する兆しも無いままである。こんなであるから、当然蝶々を集めるなどと言う気持ちは一切私の理解が及ばない域にある。
 私の性癖は、男子にあっては情けないと言葉にするまでも無い事柄であるからして、こうして他人と乗り合わせる列車内でなぞ、決して意識の上にはのぼらない。無意識にかどうか分からないけれど、どこかそういうふうに努めてきた節も、確かにあっただろう。
 こんな、たかだか少年の爪なんぞで思い起こすとは、考えてもみなかった。
  
 浅い茂みの中を抜けていく列車は、次第に背丈の高い木々に囲まれた。細く、それでいてみっしりと枝を伸ばす木々は縦横無尽に影を放つ。車内もその葉脈の様な細やかな影に入り込まれた。ご婦人のめくる本の頁も彼女の頬も、素早く滑り抜けていく影が流れるままに、ゆったりと時間に身を任せている様に見えた。そして私にはそれがひどく羨ましく思えた。
 杉林の中にいつのまにか飛び込んだ列車は、今度は何も無い光景しか私に映し出してはくれない。
細い枝の影が少なくなっていくにつれて、あたりには閑散とした茶色の木の幹と、湿った黒土が現れる。変化も無いが、ゆとりも感じられぬ様な杉の乱立は、ひどく寒々しく、かつ情緒を求めるほど奥深くも無かった。
木々はどちらかと言えば好きなのだけれど、こうも面白味に欠けてはかえって気が滅入る。静寂と静謐さと孤独は似ている様でまったく違い、違っている様で何かを共用しているのでは無いかと、私はひとりになってそう思う。
 兎にも角にも、景観に興味を失ってしまえば、私は何をしていればいいものか、はたと分からなくなった。眠ろうにも睡魔は来ず、席を立つにも目的が見当たらぬ。そして、やはりあの少年が気に掛かった。
 理由が分かればすっきりするものと思っていたが、どうしてかますます腑に落ちなくなってしまった自分が居る。そしてどこか、そう遠くないところで私を呼んでいる様な気持ちになる。そう、いつまでも鬼が見つけてくれないかくれんぼに似ている。
納得がいかないことは世の中にはあるものだが、これはもう少しで手が届きそうな気がし始めてきた。
 蝶々の標本。あんなに大切にしていた蝶々たち。手にとるたびに緊張が走り、私は蝶々を包み込んだ。そう。背筋に振るえがくるほどに。
 選りすぐりだけを集めたあれは、いったいどこに消えてしまったのだ。なぜ私はあんなにも熱中した蝶々たちを忘れ果ててしまったのだ。そして、そもそもなぜ私は蝶々を集め始めたのだったか。
 あべこべだ。堰を切ったかの様に記憶が入り混じる。しかしそのどれもがひどく不揃いでいびつなものだから、どこいらから手をつければよいものか、見当がつかない。
どうせ目的地まではまだ相当かかるのだ。延々と続く殺風景な景色は、心持ち翳った空模様をつれて来た。
何をするわけでも無いのなら、ここで今一度思い起こしてみることもいっそ楽しい作業となるやもしれぬ。
などと、考え込むあたりに可笑しさを覚える。理由付けは活力原だ。
この機を逃せばきっと埋もれていく記憶には違いない。ましてずっと長い間忘却され続けてきた代物なのだから、今日こうして立ち返ったことはいっそ奇跡的なことになるのやもしれぬ。ここらで掘り起こしてみるのも何かの縁とでも思えばよいではないか。
私は深く座席に体を沈めた。浮かび上がる思い出にそっと目を凝らし。
 
 
 壊れたたらい。その箍に金槌を当てる父。縁側で見守る母のひざの上には来春生まれてくる妹の靴下が、毛糸を引き摺っている。花の無い紫陽花の下の湿った土。生まれ育った家のその庭で、暖かな日差しが軒をかすめてそこらじゅうに散っていた。同じくらいに穏やかな母の表情に、私ははっと息を飲む。だが、私はどこに居たのだったか。たらいを壊した私は。
 
 小石に染み込む影。垣根の多い町。黄昏ている。山椿が生垣の奥から覗き、私はかじかんだ手を握ってその向こうから聞こえてくる、まだ聞きなれぬ赤ん坊の声に立ち止まる。おそらく乳を欲しがる赤ん坊の泣き声がいやにはっきりと耳に残り、友達が各々の母親に首根っこをひっ捕まえられて帰路につくのを、背にした。小石の影が長く伸び、その輪郭すらもぼやけてくる頃、私はひとり家々に明りが灯っていく様を見ていた。私の迎えには誰も来なかった。ただ、やけに月が綺麗であった。
 
 蒸し暑い教室。蝉が入り込んだのではないかと思えるほど、ひどい耳鳴りのする中で、級友の囃し立てる声が背に刺さる。尋常小学校の風景。目の前に立つ少女。引き戸につかまり、中へも外へも向かえぬ私。父そっくりの鼻筋を持ち、母そのものの瞳をした少女の手には母のハンケチで包まれたアルマイトの弁当箱。おさげ髪に後光が差して、私は眩みそうになりながら羽虫が飛び交う様を見つめていた。少女の髪にそれが留まり、私は弁当ごと彼女を突き飛ばした。羽虫はどこぞへと飛んで消えたが、うずくまる妹は身じろぎもしなかった。消えた羽虫は二度と戻らない。
 
・・・駄目だ。水泡の様に湧き出てくる記憶は取り留めが無く、まるで答えになりそうもなかった。
考えてみれば、毎日が私の中を駆け足で通り抜けていくだけで、子どもの頃のことなぞもうずっと忘れていた。さもそんな記憶は元より無かったとでも言う様に。忘却の理由というものもきっと、私の望む答えの中でその破片を掬い取ることができるだろう。そうでなくば、この、まるで再び蘇ることを許されて喜んでいるかの様な、巨大な渦にも似た記憶の洪水をどうやって説明出来ようか。溢れる映像と、しばしば酔いにも重なる不可思議な悪心と心地よさ。
もう少し絞ってみようか。そう、私が蝶々を集め始めたのはいつ頃であったろう。そもそもの発端から手をつけてみればどうだろうか。焦ってはいけない。ゆっくりと、そう深く息を吸い、思い出すのだ。焦っては、いけない。
 
 
 近所に勢太と言う子供が居た。歳は確か私と同じであった様に思う。勢太は闊達な少年で、背丈も私より一回りほど大きく、妙に大人びた子供であった。いつも小奇麗な洋服を着、言葉も驚くほど達者で、あの頃の子供らの中にあって彼は一風変わった存在であった。
勢太は色んな事を知っていた。私が大人になってやっと理解した様な難しい言葉や隠喩などをさり気なく使い、それがあの頃の私にしたらまるで違う世界の人間にも思えたのだった。勢太は運動も得意で、何かにつけて人並みより遅れていた私は、それは感嘆したものだった。また、そんなこんなを一切鼻にかけないその態度に、私は羨望すら覚えた。
その上勢太は、埃くさいほかの子供らの中にも見事に馴染んでいた。と、言うよりも彼は常にその中心に居た。勢太は確かに体もしっかりしていたし、大人と口をきくことも不自然なほどに上手く、それだけをとってみれば明らかに異質ではあったのだけれども、何より勢太の素晴らしいところは、とても優しい子供であったと言うことだった。
よく気がつき、みんなに優しく、平等であった。よくよく思い返せば、勢太の周辺には絶えず似たような年頃の子供らが取り巻いていた。
 一方私と言えば、愚図で鈍くさく、体力の乏しい静かな子供であった。思えば勢太と私にはかなりの隔たりがあったのだが、その子供世界の中においても一際遅れをとっていた私はそれすら気にとめていなかったのだと、今にしてそう思う。そして私のそんな態度に勢太はいつでも笑い返してくれたし、周囲に気づかれない程度に手を差し伸べてもくれた。私はすっかり有頂天になった。いつも彼の後を静かに静かについて回る様になった。そして理解したことは、彼はやはりほかの餓鬼大将とは随分違うということであった。彼が周囲と上手く馴染んだ要因として、勢太の少し不思議にも思える気の使い様と、彼生来の好奇心が大きな理由のひとつになっていたのだと思う。勢太は難しい言葉や挨拶、喧嘩のなだめかたなどおよそ子供らしくない様な事までとてもよく承知していたのだけれど、その一方で十かそのくらいの時分から男女の仲に興味を持つ様なませた一面も見せた。それが子供とはいえ男の子の輪の中ではとびきりの賞賛の的となった所以でもあるだろう。
 私はそんな勢太が大好きだった。何でもよく知っていて、しかしそれをひけらかす事も無く、常に味噌っかすであった私の拙い言葉を唯一きちんと聞いてくれた彼を、私は尊敬していた。
 ある時、勢太は私に家へ来ないかと言った。
「とても貧相な木なのだけどもね、今年も柿が生ったのだよ。もしよかったら貰ってくれるかい」
 勿論私は断る訳など無かった。しかしそれは私ひとりを誘ったのでは無くて、むしろ私は大勢の中のひとりに過ぎなかったのだけれども、幼かった私は嬉々として彼の家へと走って行った。
 勢太の家は私の家からわりに近く、訪れることに躊躇う距離では無かったし、それは他の子供らにしてもそうであったのだけれど、なぜかみんな勢太の家に遊びに行った事は無かった。第一に勢太からのそうした提案が無かったということと、勢太にはどうも生活という概念が似合わない様な、果たして家族というものが彼には本当に存在するのかと言ったふうな、妙に浮世離れした印象があったから、とも言えるだろう。長屋や古びた家々の多いあの町の子供たちには、勝手口の蝶番は腐っているものだと思っていたし、軒先に家族の下着がはためいているという様な景観はしごく当たり前の物だと考えていただろう。が、勢太に限っては、とてもそんな状況が当てはまらない様に思えてならなかった。特に私の様な知識も経験も想像力も乏しい子供には、それは絶対的に似つかわしくない光景にしか思えなかったのだ。
そんな偏った印象を勝手な確信に格上げした思いのまま、私は足取り軽く勢太の家に行った。濃い緑の葉が茂る生垣にぐるりと囲まれた勢太の家はすぐに見えた。全体的にこぢんまりとした日本家屋で、瓦の屋根は遠目にも新しく、今の私の言葉であったらそれはどこか料亭に近い様な造りであったと言えるだろう。玄関に至るまでに距離があり、小造りながらきちんとした軒の乗った門扉もあった。改めて見上げた勢太の家に、私は満足した。私の家はとても広かったけれど、ひどく古くてあちこちにがたがきていた。ここならば勢太が住むに相応しいと、分不相応な感慨を抱いて上品な色合いの門扉の格子に視線を下ろした。
だが、不思議な事にそこには想像していた様な子供たちの群れは無く、勢太ひとりが困った様な顔をして私を見つめているだけであった。
勢太は決まり悪そうな、やや自嘲的にも見える実に複雑な表情を浮かべていたことを、私は今でもはっきりと覚えている。彼はもたれていた門扉から背を離すと、洒落た仕草で両の手の平を上に向けると、
「もう少しまってみようか、と思っていたところなんだよ。君が来てくれて嬉しいよ。ひとりで待つのはつまらないから」
と、言った。
私はいぶかしんだ。なぜこんな絶好の機会にみんなが集まらないのか。せっかく勢太が誘ってくれたというのに。
 しかしそれからしばらく待っても、私以外に訪れる者は無かった。勢太は組んでいた腕をほどくと、先ほどの表情など嘘か幻であったかの様な笑顔をその整った顔に浮かべ、身軽に門扉を押し開いた。
 「それじゃあ、入ろうか。一緒に待たせて済まなかったね」
彼らしいすっきりとした滑舌でそう言うと、私が門を潜るまで、戸を押さえてくれた。高い生垣に囲まれて外からでは見えなかった庭が、門から玄関戸に続く石畳の左手に広がっていた。私の家の物干し場よりも相当広い庭には、高い柿木が奥にあり、手前には小さな池と大小の石が置かれていた。
私が何気なく奥の柿木を見上げて立ち止まると、すぐに勢太は振り返って微笑んだ。
 「そう、あの木なんだ。もう実の方はあらかた捥いでしまったけれどね。そうしないと軒並み烏にやられてしまうんだよ、早めに捥いだ柿は寝かせておけばすぐに熟すから、人間が食べるぶんには心配いらない」
「上のほうにある柿は、とどかなかったの」
私が言いながら上の細枝に揺れている僅かに生った実を指差すと、勢太はゆっくりと歩き出しながら言った。
「烏には烏用にああやって残しておくんだよ」
そういうものかと感心しながら、私は勢太に続いて一枚扉の玄関に入った。
 玄関からすぐの庭に面した部屋に通されて、私はその日当たりの良い畳の匂いのする部屋を、落ち着き無く観察した。観察と言ってもただあたりをきょろきょろと見回しただけであったのだけれども、軸と隅に設えた茶釜と座卓のみの静かな部屋の中で、私は妙な空気を感じていた。勢太は私に渡すための柿を持ってくると言い席を外していたから、その理由を察知するにはそう時間は掛からなかった。この家は古い造りではあるけれど、柱も何もかもはまだ新しい。整った庭とぴかぴか光る廊下。だのに、この家には音が無かった。人の生活する音、匂い、形跡がひどく薄いのだ。その頃の私には大きすぎた座布団も新しく、それが何やら不自然に思えた。
そんなこんなと考えているうちに勢太が戻り、私は瑞々しい照りを放つ柿に気をとられ、それまでの思考は綺麗さっぱりと消え去った。
 勢太の出してくれた冷たいお茶を飲みながら、私は初めて勢太とふたりきりで話しをしている事に気がついた。それまで数人の輪の中でぽつりぽつりと喋ることはあったものの、私にはそもそも人に喋る内容として充実したものを持ち得てはいなかったし、その技術も無かったものだから、どうしても気後れしてしまい思ったことを伝える機会をいつも逃していたのだった。それが、この日ばかりは人気者の勢太を独り占め出来ていると言う現実が目の前にあり、私は拙いながらも高揚した気分で色々と喋った。勢太もそんな私にいつもながらの笑顔で応えてくれ、私は嬉しさで胸がいっぱいになったことをよく覚えている。
 そして解った事は、勢太には五つ歳の離れた兄が居ると言う事と、勢太は私を嫌ってはいないと言うことであった。
 「兄さんは今学校の寮に入っていて、冬の休みに一旦戻ってくるんだよ。兄さんはとても頭が良くてね、成績も抜群なのさ。とてもよく物事を知っているし、帰ってくると都会の楽しい話をいつもたくさん話してくれる。もうすぐ、もうすぐ兄さんは帰ってくるんだよ。そのときには君ともきっと会えると思うよ」
 勢太は彼にしては珍しく、やや高潮した頬を綻ばせて言った。
その時である。部屋のふすまが音も無くすっと開き、鮮やかな和服を着た女性がその向こうに姿を見せたのは。
人ひとり分通れるほどに開いた襖から身を入れると、無駄の無い洗練された動作でその女性は静かに襖を閉じて私に向き直った。慣れた仕草で指をつき、女性は私をすうっと見上げた。
息を飲むほど綺麗なひとであった。大きく粋に結った髪は黒く艶やかで豊かであり、その顔は抜ける様に白く、吸い込まれそうな大きな瞳を持っていた。子供心にドキドキする様な色鮮やかな着物をゆったりと着た女性は、小さくやや厚めの赤い唇をほんの少し動かして喋った。
 「勢太の母です。今日はよく遊びにいらしてくれましたね、どうぞゆっくりしてらして。いただきものなんですけども、よろしかったら召し上がってくださいな」
 器に入ったどこかの茶請けの菓子を薦めると、彼女は白檀の香りを残して退室した。その間、私は凍り付いてしまったかの様に、彼女をとっくりと眺めていた。まるで口の利けない子の様に思われてもおかしくないほど、私は緊張していた。元来大人を相手にすること自体が不得手であるのに、加えて私はあんなに綺麗なひとを見たのは初めてであった。付け足すならば、私の母とて昔は何がし小町と呼ばれたほど、美しいひとであった。ただ、母は子供がふたりになった時点で、過度の化粧はやめてしまったし、服装もごく地味なものばかりであった。それでも私は他人から母をよく褒められたし、友達からは羨ましがられた。母は私の自慢であった。しかし、根本的に勢太の母と私の母は違っていた。
母は公家顔の美人であり、勢太の母は西洋人の様なメリケン好きのする幼顔の美人であったと言う以上に、私の母は、女であるよりも母親であった。勢太の母は信じられないほど若く、美しかったけれど、私の母親という概念からは大きく外れて見えた。それに、勢太の母のあの洗練された所作も、どうもおよそ母親らしさを感じさせない要因の様な気もした。
 彼女の座っていた位置から香る白檀の匂いは、どこか現実離れしていた。
私はやっと我に返り、向かいの勢太を見やった。すると、勢太はまるで面を被ったがごときの無表情になったまま、遠くを見つめていた。まるで一瞬時間が止まってしまったかの様で、私はただひとり、知らない荒野に取り残された夢の中に居る様な、不可思議な気持ちになった。勢太はやがてゆっくりと視線を下ろすと、小さな声で呟いた。
「はやく冬になるといい。そうしたら兄さんは帰って来る。早くここにも冬がくるといい。冬になったなら」
視線が合った。およそ勢太に似合わない目の色であった。いや、それが本来の彼の姿であったのか。
 「君にも兄さんを会わせよう」
 この日私は初めて彼の兄、惣一郎氏のことを知ったのだった。
 
 その日、すっかり日が暮れて家に帰り着いた私は、激しく頬をうたれて夢心地から醒めた。
勢太から貰った柿が土間に散らばり、鈍い音が僅かな振動となって地面についた私の尻に伝わった。激昂した父の背から電燈の明りが黄色味を帯びて広がり、くっきりと黒く浮かび上がる父の影に私は怯えた。
私は首根っこをひっ捕まえられて引きずられ、居間に行き着くと放られた。
父は私をもう一度叩くと、腕を組んだ。その少し後ろに控えた母は心配そうに面持ちで私と父を交互に見やっており、私は母が居るならばと思い少し安心したところ、奥の間で小さな妹が乳をせがんで泣いた。母はあっさりとそちらに行き、私は微かな絶望を覚えた。
 父はいっきに捲くし立てた。時折手が飛ぶので、私は歯を食い縛らねばならなかった。しばらく怒鳴られるがままであったのが、母が戻ると、今度は彼女が物も言わずいかにも腹ただしそうな表情で私を見つめたのだった。
納得のいかないまま私の拙い統合力で構成していった両親の言い分は、どうやら私が今日勢太の家へと足を運んだことが問題であるらしいと言うことと、両親ともが勢太とその家をひどく嫌っているらしいと言うことであった。
 私は何とはなしに、今日他の友達が来なかったことと、勢太の若い母親を思い出して、少し解った様な気がしたのだった。
父からきつく言われ、私は今後二度と勢太や勢太の家と親しく付き合わない事を両親と約束した。
 奥の部屋から、甘えた声音で泣く妹の声が聞こえた。
 
 それからは私の家で勢太のことが会話に上ることは無かった。父も気を直し、普通に接してくれる様にもなった。前々から私の男の子らしくない性分に嘆いていたことを除けば、父も母も私に優しかった。そしてそれ以上に、可愛いさかりを迎えた幼い妹にかかりきりになってしまっていた両親は、そうした出来事すら忘れてしまったかの様にも見えた。
後日、私は気になる事を思い出したのだった。あの勢太の母が部屋に入ってきたとき、彼は一言も喋らなかった。それどころか母親が退室するのを待っていたとでも言う様にして、口を開いたのだ。
しかしそんな想像も、口に出すことは無かった。子供心に、足を踏み入れてはいけない問題もあるのだろうと、そう考えた。どんな家にだってそんな事情はきっとあるはずだった。勢太だって私と同じ歳の、しっかりしているだけの普通の子供に違いないのだから。
 しかし、父との約束を守る気持ちは無かった。私には、それがなぜ私と勢太が遊んではいけない理由として成り立つのかが解らなかったからである。それに、せっかく出来た友達を失うのは嫌だったし、たまさかあんな優れた友人を自分からないがしろにするだなんて事は、天地がひっくり返ったとしても出来るはずは無かった。
 私と勢太はそれからもちょくちょくふたりきりで遊ぶようになったのだった。
 
 年末の空気に近づき、早々と注連縄の心配をしだす問屋のごしんぞさんたちが現れる頃、丁度私の小さな妹は伝い歩きを始めるようになった。赤ん坊は子供が好きであるから、勿論私と一緒に積み木やらお馬遊びやらをして過ごすことも多くなった。ぷっくりとした頬が赤く、笑うととても愛らしかった。
 ある日私は何回目かの勢太の家への訪問で、わずかに以前とは違った空気が屋内に漂っているのを感じた。冷たい空気は冬の到来と重複して足の裏を冷やしたけれど、それでもどこか違って感じたのは、勢太の態度から見て取れたものがあったからであった。
 以前から通されていた部屋はやはり居間では無くて茶室も兼ねた客間であったらしく、その日はテーブルのある洋風の居間に通された。いつもながらの洒落た、それでいて都会的な匂いのする茶器を出され、私は勢太といつも通りの取り留めの無い会話を交わしていた。勢太は普段もやはり身奇麗で、私の煤けた着物とは違い白い手編みのセーターを着ていた。しかしそれを編む勢太の母の姿は上手く浮かばず、いったい誰が編んだものなのかは分からなかった。
 勢太の家は思っていたよりも広く、正面の構えより奥に続く廊下によってそれは推し量る事が出来た。私自身は勢太と遊ぶ事に終始していたから、その奥に何があるのか、覗いた階段の上には誰が居るのか等は興味が無かった。と、言うよりもそこまで意識が回っていなかったと言ってもよいだろうと思う。
しかし稀に、奥の違う部屋から物音が聞こえたりすれば、自然耳がそばだったのも事実である。静まり返った冷たい空気の家の中、その物音は別段何を気にする事など無くとも、ここが勢太ひとりだけが住まう場所では無い事を無言のうちに伝えている様な気がした。
 うっすらと開いたままであった扉の向こうに、その日ちらりと過ぎったのは、目の醒める様な真紅の洋服を着た母親の姿であった。時は夕刻に近く、踵の高い靴がたてる、玄関の硬質な床を叩く音が遠ざかって消えていくのを、私は確かに聞いた。勢太はひとつ小さなため息をついた。全てが組み込まれた芝居の様な調子で、それらは一瞬の出来事であった。
 私は今でも思う。あの母親がほっこりと優しく微笑む姿を。柔らかく美しい笑みは、現在になっても色褪せず、心が温まる様な気さえする。子供であった私にまで当然の様に指をつくその一連の所作には、一番手前にある引き出しの物を取る様な、自然な流れがあった。
私は向かいに腰掛けている勢太を見た。膝に置かれた手が握り締められている様は、彼の健気さとも、今になれば思えた。
 勢太はテーブルに広げた図鑑を脇へと静かに寄せると、にっこりと笑って言った。
 「君に会わせたいひとが居るんだ」
 
 
 激しい動悸が私を襲った。慌てて目を開くと、そこはやはり列車の中で、向かいのご婦人は静かな寝息をたてており、日は随分傾いていた。首回りに手をやると、汗ばんだ感触があったが、すぐに乾いた。歳をとったな、と思う。いつの間にかすっかり老け込んでしまった。
子供の頃の時分がまるでつい先ほどであったかの様な錯覚は、意識がはっきりしてくるにつれて薄れていった。
自分にもあんな頃があったのだ。遠い出来事ではあるけれど、あれは間違いなく私の歴史である。自慢できる様なものは思い返してみたところで何があると言うわけでも無いのだけれど、どこか微笑ましかった。昔は以前の記憶など、過去の自分の事など思い返したくも無かった。もどかしく、恥ずかしく、苦い思い出ばかりの様な気がしていた。しかしそれもまた、昔の出来事のひとつとなってしまった。今はもう、思い出と言えば照れこそ残るものの、楽しく思い返せる様になった。それを成長と言うのか老成と呼ぶのかは分からないけれども。
 ほつれていた糸口の先端を、やっと掴みかけた様な気がし始めた。
どうして私は忘れていたのだろう。惣一郎氏のことを。蝶々の記憶とともに一緒に押しやってしまったのだろうか。
ああ、しかしまだ全てが分かった訳では無いのだな。まだまだ完璧では無い。原色の渦巻きが駆け巡っていく。人はそれを記憶と呼び、歴史と呼び、時間と呼ぶのだろうか。あまりの速さに照準を合わせることが出来ぬ様、人間は歳をとるのか。
 向こうの座席に腰掛けた少年は俯いて本を読んでいた。綺麗な影絵の様な彼は、時折伝わる振動に身を任せながら面を伏せたままであった。光の加減で何とか読み取れた本の名前は、確か私も呼んだことのあるものであった。随分昔の作品ではあるけれど、ああして今でも誰かに絶えず読まれることにより、作家はずっと忘れられることは無い。自分の歴史すら満足に思い起こせぬ者が、不思議な事に人の残した足跡は覚え続けていられるのだから、まったく妙なことだ。
 夕の月が濃くなった空の青に浮いていた。もうここも随分と変わってしまっただろう。移り変わりはゆっくりとし過ぎているから、経過した時間を認められずに、私たちはその変化を早いものだと思い込んではいまいか。必要以上の緩慢さをその町並みや景観に強いてはいまいか。時間の流れはきっと本来、速くも遅くも無いのだろう。私たちは原色の巨大な渦巻きの中で流されているのだから、息継ぎをするのに精一杯で、時間の速さや遅さなどは感じないものなのだ。それをそう思うのは、渦の流れに慣れた人間か、流れそこなった人間かもしれない。
そういうふうに物事を定義付けしていく事すら、きっとあまり意味の無い労力なのやもしれぬ。それもいい。私は無駄な事が好きだった。
 ああ、私が呼んでいる。膝小僧を出したやせっぽっちの私が。行こうじゃないか。
 
 
 勢太は椅子から立ち上がると、身を翻して部屋を出て行った。勢太の言葉を反芻しながら、私は床につかない足をふらふらと揺らしていた。
 「実はね、おとついやっと兄さんが帰ったのさ。今二階に部屋を作っているんだけども、そろそろ終わる時分だと思う。少し待っていておくれね」
 相手が大人では無いのなら、という気持ちがあった事は事実であった。それに勢太がそんなに自慢をする人であるなら、きっと優秀なのだろうから、私など相手にもされないのではないか、と言う気持ちも重複していた。
心なし緊張していると、部屋の扉が静かに開かれた。
 
 「やあ、こんにちは。弟からお話は聞いているよ。よく来てくれたね」
透明な声であった。ただ私の目を穏やかに見つめ、どこか懐かしい様な微笑みを浮かべている。
 小さな形の良い頭が軽く、ゆっくりと傾く。白い開襟シャツに羽織った紺色のカーディガン越しに、すらりと伸びた手足が窺えた。勢太よりも随分と痩せた首と、細い頤。何よりその黒々とした男子にしては長めの髪と白い肌、大きな瞳は勢太よりもいっそう濃く母親の血を引いている様に思えた。優しい顔立ちに柔らかな笑みを浮かべて、彼は私に視線を合わせた。
 それが惣一郎氏との出会いであった。
 私は硬直した。周囲の空気が一変してしまったかの様でもあった。勢太の自慢げな表情が視界に過ぎった。惣一郎氏はテーブルの上の図鑑をちらりと見ると、開いたままの頁を手繰った。気がつくと勢太はちゃっかり私の隣に腰掛けており、私の向かいには惣一郎氏が居た。
 何と言えばいいものか、それはとても朗らかな春のひとの様な、凛とした冬のひとの様な。ほかの誰ともまったく似ていない、またこの世にふたりと居る筈も無い様な印象を抱かせる、特異な空気をまとうひとであった。
私は彼の長く器用そうな指が優雅に動くのにつられて、その図鑑を覗き見ていた。装丁は革張りの非常にしっかりとした造りで、端にはきちんと鋲が留まり、一見して外国製であることが分かる様な品であった。
 しかしその図鑑は、私の大嫌いな虫の絵に溢れていたのだった。
思わず顔をしかめた私に、惣一郎氏は聡明そうな顔を綻ばせる。
 「これは頂き物の本なのだけれども、何やら不思議と手に馴染むのでね」
 彼は私の両の目を覗き込む様にし、その奥の何かを見つめた。その顔は僅かに寂しげにも見え、また気持ちの無い人形にも似ていた。ただ、そうして見つめられる事に、嫌な気はしなかった。ふつふつと、嬉しい様な怖い様な気がしたばかりで、私の方こそ惣一郎氏に見入っていたに違いなかった。
 と、彼は開き癖のついたある頁を指差し、微かな、けれどよく通る声で私に問うた。
 
 「君は蝶々が好きかい」
 
私は言葉に詰まった。勿論蝶々なんて大の苦手である。しかしそれ以上に、私は惣一郎氏の登場からずっと強張っていたままの顔を動かすことが出来なかったのだ。惣一郎氏は丁寧に本を閉じた。ゆっくりとした動作に隠れた好ましい余裕の様なものが、そのひとつひとつに垣間見えた。そしてそれは、勢太に欠けているものを全て補った上で、余りある物を感じさせた。この町には無い、洗練された都会の空気が匂い立つ様で、私の持ち得ない物をまるで全て兼ね備えていた。
 私は一瞬にして惣一郎氏の事を好きになった。子供でも無く大人でも無く、それ以上である様な作り物めいた彼自身に、自然と興味が湧き、気がつけば背中を丸めながら彼の話に聞き入っていた。
 惣一郎氏は都会で起きた事件や寄席の話、それに到底学生では行かれない様な場所の話など、私の聞いた事の無い物ばかりを楽しく語って聞かせてくれた。学生の下宿の古さや珍しい花の咲く花壇、空気の匂いや水の味、その話術は巧みで、私はあっという間に惣一郎氏の魅力に引き込まれていった。
 そしとふと、私はある違和感を覚えた。隣に居る勢太がまったくの聞き役に回ってしまい、あんなに雄弁であった事なぞ忘れたかの様に無口になってしまった事である。
結局、勢太は兄である惣一郎氏に対して一方ならぬ尊敬と信頼の念を抱いており、彼の妙に広い見識の数々や大人びた仕草は、兄からの影響を多大に受けた結果であったのだった。
私は次第に理解していった。
私の信望していた勢太はその実、惣一郎氏の敬虔な信者のひとりであったのである。
 斯く言う私もその日から、惣一郎氏の立派な信者のひとりとなった事は言うまでも無かった。
 
惣一郎氏はまるで手品の様に多種多様な話を次々に話してくれたのだけれど、今から思えば彼の話の中に彼自身の匂いのするものは一切含まれていなかった様に思う。当時の私には勿論そんな事を思いつく能など無かったし、気がついたとしても気にも留めなかった事だろう。
惣一郎氏は今上演している芝居の役者が本番中に滑った事などを面白おかしく語った後、軽く咳き込んでからまた例の図鑑を広げた。私が思わず後じさりするのを見て取って、彼は私から離れた所にその図鑑を開いたまま置き、誰にとも無く言った。
「蝶々の美しさはね、その羽根にあるのだよ。対になったあの両の羽根は非常に薄くてね、覚え切れないほどの種類がある。そしてそのどれもが感嘆するほどに素晴らしい。まるきり人の手を借りずにあんな緻密な文様を自らの体に浮かべたのだから、まったく大したものだよ。うらうらと暖かい日差しによく映える」
勢太を見ると彼は両肘をつき、うっとりとした表情で聞いていた。私はそろそろと惣一郎氏の手元を覗き込む。そこには青や緑の蝶々がまるで貼り付けにでもされた様に両翼を広げて描かれていた。私は背中に冷たいものが流れるのを感じた。それらの蝶々たちはぞっとするほど毒々しく見えたし、大写しになったせいで余計意識させられる全身の起毛と燐分を想像した。
「でもね、たまさかこれが人間の手によって描かれた文様であるならば、きっと人々は素直に蝶々を美しいとは口にしないだろうね」
そう言って惣一郎氏は私を見た。そして優しくにっこりと笑うと、図鑑を閉じる。今度はそれを遠くの棚に仕舞い込み、私から見えない位置にやってしまうと、静かな口調でこう言った。
「君は虫が嫌いなのだね。中でも蝶々はとくに嫌いだ。違うかい」
私は驚いて目を見張った。今までそんなことは誰にも喋った事など無かったのに。周囲から散々に弱虫と謗られ、父からは男のくせにと言われ続けていた私は、ここでそれを認めてしまう事によって、惣一郎氏に嫌われるのではないだろうかと、気が気ではなくなっていた。
しかし、反面、惣一郎氏だけは私の気持ちを笑う事無く聞いてくれる様な気もしていた。
意を決した私は、ひとつだけ大きく頷いたのだった。
 
「だって、蝶々は」
自分の耳の下で、生唾を飲む音が一際大きく聞こえていた。掠れてしまう声が細く、ただ正面にある彼の眉のあたりを見ていた。勢太がゆっくりと私の横顔を眺めて肘を立てた。視界は狭まっているのに、どうでもいい様な物ばかりは良く見えた。
「だって蝶々は、嘘をついて見えます」
虫は醜い。皮膚とは似ても似つかない乾いた背に、そこだけが自在であるかの様な無数の脚が、湿って見える腹で蠢いている。
醜悪な起毛を波打たせ這い回る癖に、些細な事で飛び回り、逃げ回る。卑屈な態度であるかと思いきや、小馬鹿にした羽音をたてて不気味な動きを見せる。昆虫であろうが何であろうが、百足の予測のつかないしゃくとりには悪寒が走るし、蜘蛛の尻から垂れる糸には限りない不潔さを感じた。
 虫は汚く醜い。
それだのに。
 「人は、蝶々を綺麗だと言います。でも僕は、そうは思いません。女の子は虫が怖いと言いますけど、なぜ蝶々は綺麗だと思うのでしょうか、同じ虫だのに。なぜ、蝶々だけが特別なのでしょう。カブト虫も蜂も蝿だって、蝶々と同じではないのですか」
 途切れ途切れ、苦い空気を吸い込みつつやっとそれだけを言った。なぜだか胸が熱くなってしまい、肩が震えた。
駄目だ。うまく伝えられない。言葉はたくさんの渦となって私の中に滞っていると言うのに。今まで言う事の出来なかった、まるで洪水の様な想いは私の中に澱と積もっていると言うのに。言葉が欲しい。今ここで私のもどかしさ、怒り、不安を伝えてくれる言葉が欲しい。なぜこんなにも嫌ってしまうのかすら、私には解からない。自分に腹が立つ。
蝶々はなぜあんなにも鮮やか過ぎる羽根を持っているのでしょうか。飛ぶためだけでは無い様に思えてなりません。あれは、そう、丁度赤ん坊が母を呼ぶ様な、女の子が髪を結う様な、そう、あれは。
人間がいかにも好ましいと思える色に身を窶すは、蝶々の嘘なのです。
 「蝶々の腹は確かに虫です。だのに、人は羽根しか見ません。それとも蝶々にはふたつの命が与えられているのでしょうか。腹の虫の部分は、蝶々では無くて別の命のことなのでしょうか。あの青や赤の羽根は、蝶々の嘘に思えて仕方ないのです」
人間に気に入られようと、醜い自分を消してしまおうと、あれは嘘をついているのです。そして平然と図鑑に載り、僕らに姿を見せるのです。幼い名残を打ち消す様に、おぞましい自分を忘れてしまうために。
 蝶々は嘘つきだ。
 
「君は」
 はたと我に返った。どこか高いところからの声の様に、惣一郎氏の呼びかけは鈍く響いた。腹の奥で何かがひくんと跳ねた様な心持で、組み合わされた彼の手をずっと凝視していた自分に気がついた。
 見上げた惣一郎氏は、うっすらと目を細めて私に頷きかけている様に感じた。安心感が私の膝から骨を抜いていく。このひとだけは、分かってくれているのかもしれない・・・。
「君はきっと、こんな大きな蝶々が飛びでもしたら、さぞ気味が悪いと思うのだろうね」
 ちらり、と勢太が私と彼を交互に見比べたのが分かった。どうしたと言うのだろう。
「でもね、世の中には僕の手の平よりもうんと大きな蝶々もいるのだよ。それは君、嫌かい」
 それは、まさに私の不安の中枢と言ってもいい問いであった。
身を窶した嘘の癖に我が物顔でまかり通ろうとする。それは恐怖の飛来であり、嫌悪の羽ばたきなのだ。
私には、とてもよく理解の出来る質問であったのだ。
何を考える間もなく、幾度も幾度も頷いていた。拡散した靄が凝縮していく感覚が、深い喜びだと分かるまでの時間差はすぐに追い着いてきた。このひとだけは、私を解かってくれている、きっとそうに違いない。それはかつて感じた事の無い、本当の喜びであった。
思わず勢太を振り返ると、乗り出した私を見つめていたのは勢太の予想外に冷え冷えとした視線であった。
 そうか。と、私の中に醒めた意識が浮上する。一方での熱い感情との対比はあからさまであった。
彼には、勢太には解からないのだ。うまく言い表せぬ底無しの不快感、たかだか虫けらに対する深い嫌悪、ぐるぐると巡る怒涛に似た煩雑な感情と、込み上げてくる言い知れぬ孤独感。そのどれもが、勢太には繋がらない。私にはいたって明快な問いかけも、勢太には、他人には理解する事の難しい事柄であるのやもしれぬ。現に勢太は眉根を寄せ、何を言い合っているものか分からぬと言った表情をしていた。
 勢太には解からない。それは心が奈落へと落ち沈む寂しさを連れて来た。だがそれと同じくらいに、判然としない優越感をも私に与えた。
 虫が怖い。だけれども、なぜそんなにも怖いのか。体全体を覆い被さる様にして私を襲うこの恐怖は、何だと言うのだろう。惣一郎氏は虫が怖くは無いのだろうか。心を毟り取られていく寂しい恐怖を、なぜ勢太には感じられない。
蝶々は私よりうんと小さい。私を食い殺す事など出来るわけが無い。そんなことは分かっているのだ。だのに。
 頭の芯がぼうっと熱を帯びてきた。口の中が渇いて、舌はどこかと溶けて引っ付いてしまった様だった。
惣一郎氏は、何を恐ろしいと思うのか。
 
 「君はかしこいね。そう、蝶々は君を襲ったりなんぞしないよ。しかしそれでも君が恐ろしいと思うのならば、いっとう簡単な方法がある」
 私にはもう彼以外は何も見えなかった。私の後ろにも前にも続く物は、ただの暗い暗い隋道だけだった。
 形の良い彼の唇が、そっと動いた。
 
「君を怖がらせる蝶々は、全て君が捕まえてしまえばいい」
 
 新鮮な驚きと、予感していたかの様な安堵感が入り混じった。
彼が言うのであれば、それは確かな手段に思え、出来ない事など無い様に感じた。一方では、重たく沈む不安がいつまでもこびり付いてはいたけれど、反対にそれらは全て予定調和の様な気もした。
 私はとり付かれていた。何にかは分からない。今すぐにでも、惣一郎氏の言葉に応えてみせたかった。彼からの期待を裏切りたくなかった。関心を抱いてもらいたかった。これきりにしたくは無かった。
 何をどうしてか、一揃えの虫取り網と籠を手に入れた。大方両親にねだったのだと思う。父はやっと男の子らしくなったと喜んだ。母の優しい目が笑っていた。家族が平和に見えた。しかし浅はかなもので、そんな準備が整った頃、季節はまだまだ冬の只中にもいたっていないと言う事に気がついた。
 私は生まれて始めて、虫たちが謳歌するその季節の到来を待ち望んだのだった。
 
 私自身、この身の中にこんな感情が隠されていたとは思ってもみなかった。
床だと思いこんでいたものが単なる下部の天井に過ぎなかったかの様な、考えてもみなかった隠し扉がそこには確かにあり、どうかすればそれは一度も日の目を見る事の無かったやもしれぬ空間。
 鬱屈していた訳では無かった。屈折していた訳でも。それでもその空間は間違いなくそこに在って、私の一部に相違なかった。
惣一郎氏と出会う事が無ければきっと、私は見過ごしていた。
 ちっぽけな私と言う存在の中で、町と家族は私の全てであった。それ以外にある物など、見当もつかなかった。広げた腕は自分が思っていた以上にとてもとても狭いのだと言う事。
私なぞの幼稚な考えに、誠実に答えてくれるひとが居るのだと言う事。常にひとより遅れた私の、幼い心にのしかかる現実に羽根を与えてくれた彼は、大人たちの様に飛び立つ事を強要もしない。こんな素晴らしい事が本当なのかと、私は毎夜夢の入り口で振り返った。
こんな不出来な私の事を見ていてくれるひとが居る。夢の中では私は眼鏡をかけた聡明そうな少年であり、家に帰れば私の利口さを、勇ましさを、みんなが褒めた。まるで怖いものなどひとつも無いのだと言う様に。
 目覚めた後の世界が嘘であればと、私はいつだって願っていた。
 
 冬の間、私は殆どの時間を惣一郎氏に会いに行く事に費やした。惣一郎氏は嫌な顔ひとつせず私に微笑んでくれた。その瞬間が何より好きであった。今から思えば何と言う迷惑をかけていた事かと思う。しかし鈍い私にはそんな考えはひとつも浮かばず、特にこれと言った用件も無く毎日押しかけていたのだから始末に悪い。まあ、例え何がしかの用事があったのだとしても、それはあくまで私の幼稚な脳髄の中の出来事に過ぎなかったのだから、惣一郎氏にとっては面白くも何とも無かった事であろう。それでも彼はいつだって微笑んで迎えてくれた。
そして驚く事に、彼は私に一度語って聞かせた話を、二度とはしなかった。私自身の記憶であるので少しばかり信用度は落ちるけれど、確かに彼は毎回違った話を披露してくれ、その見識の広さに幼いながら感服した覚えがある。私なんかの砂利た餓鬼にまでそうした心遣いをしてくれた事が、それはもうたまらなく嬉しかった事もよく覚えていた。
 勢太は毎日毎日私が訪れる事に驚きを隠せない様子であったけれど、その目的がどちらかと言うと自分では無くその兄にあるのだと分かると、困惑する様な少しばかり誇らしい様な、曖昧な笑みを浮かべていた。
 勢太は確かに優れた友人ではあったけれど、惣一郎氏と出会ってからは幾らか霞んで見え始めていた。落胆よりも納得する気持ちの方が勝っていた様に思う。勢太が輝く一等星であるならば、惣一郎氏は太陽か、あるいはそこに広がる空その物の様であった。
 私は少しずつ、勢太に感じていた信望が奇妙に変形し、歪んでいくのを感じていた。
 
 朝の日が真実違った光の加減を連れて来たある日、私は終わりつつある冬を感じ取った。
そしてそれは目の前が真っ暗になる程の絶望を告げる物であった。
冬が終われば、また惣一郎氏は遠くに行ってしまう。もうここには当分戻らないであろう。もう随分長く、会えなくなってしまうだろう。それは信じられない現実であったが、決して信じたくない事実でもあるのだ。
 原っぱに広がる丈の高い草が、そよそよと風に波を立てている様が恨めしかった。焚き火の匂いより、繁茂する草花の香りが強く、湿った土は足の裏に柔らかかった。
 空を仰ぎ見ると、雲が千切れて漂っていた。幾分冷たい風が木陰の位置を作り直している。私は目を凝らした。木陰はふいに煽られて、ざわめいている。涙が出てしまうかと思った。
妹の甲高い声が、遠くで聞こえた様に思えた。こんな日和にはもうそろそろふたりで遊べるかもしれない。妹は段々母親に似てくる。生まれたばかりの時は父親そっくりであったのに。
 白と呼ぶには薄すぎる雲の中に、早すぎた桜の花弁が舞っていた。花弁は落ちずに上昇し、そしてふいに下降した。
おかしい、と思うより早く、私はそれが蝶々であることに気がついた。
よく見渡せば、ほんの数匹の蝶々がそこらに浮いていた。私は駆け出した。逃げるのか。そうも思った。が、震える私の手が掴んでいた物は、冬の間手入れされ続けていた網と籠であった。
 訳がわからないまま、私は蝶々を追った。上ばかり見て走り回っていた。白い羽根に黒い斑の浮いた蝶々は、するりするりと矢鱈に突き出される網を潜り抜ける。私は泣き出しそうであった。いや、すでにわあわあと泣いていたのやもしれぬ。それでも私は走った。時折覗く黒い腹に、言い知れぬ不快を感じて幾度もえづきながら走った。
逃げ回る蝶々のその頼りない姿がひどく私の怒りを呼び、かと言って遠く高く飛び去る事もしない態度に苛立ちを覚えた。何の能も無い、空っぽの脳しか持っていない、小汚い虫けら。
段々と、逃げ回っているのはいったい蝶々なのか私であるのか、分からなくなっていった。
 日が暮れて、どこかの夕餉が始まる時刻になり、私は長く伸びる自分の影を長い事見つめていた。
何かにかは分からない。が、悔しかった。悔しくて悔しくて仕方が無かった。
臆病なのはどっちだろう。終止符を打たれた様に、蝶々の姿はどこかへと消えていた。
 その日、私の網の中に蝶々が捕まる事は一度も無かった。
 
 明くる日も私は近所ののっぱらに赴き、次第に埃っぽく感じられる空気の中ひとり奮闘して蝶々を追い回した。
無我夢中と言うとそうでも無く、昨日の自分に対する要領の悪さを再確認したせいか、少しは物を考える様にして駆ける。あわやと掠りかけた虫取り網を地面に叩きつける事もようようあったが、俄かに自分の態度が大胆になっていくのを感じずにはおられずに、内心は大変に戸惑っていた。
心持が違えば自ずと体もついてくるものらしく、ほうほうのていになりつつもやっとのことで飛び掛ったその時に、私は確かに今まで己を嘲っていたひらひらしたものが、その網の中に収まって行く様を見た。
まるきり虚をつかれたのは果たして蝶々だけではあるまい。少なくとも私にはその一瞬はひどく呆気なく感じられた。
 私は自分の乱れた呼吸の音と胸の鼓動をがんがんと聞きながら、息を詰めていた。腹ばった姿勢のままで、それでもしっかと握られた棹をなおも強く意識し、先の網の細かな目からチラチラ覗く羽根から目が逸らせずにいた。思えば蝶々をこんなに近くで見たのも初めてであった様に思う。額と言わず首と言わず、じっとりとかいた汗が重く、反対に腹の下で潰された草のつゆが信じられぬほど冷たかった。が、次第にそれも柔らかな癖に止む事を知らない春の風に吹いて飛ばされ、耳障りな心音も平常になっていった。
 しかし予想していた様な新世界が私の前に開かれた訳では無かった。
やったのだ、とうとうこの嫌らしい虫けらをこの手で捕らえたのだ。確かに私はこの快挙に興奮した。目の前がすっきりと広がって行く感覚は、確かにあったのだ。けれども信じられない事に、それはただそれだけの感動を呼んだに過ぎなかったのだ。
そんな事は無いと知っていても、どこかで新境地らしき物が用意されているのではないかしらと言う気持ちが全く無かったとは言えなくて、もっと言えば私は瞬間的にあらゆる強さを得られる事を内心願っていたのだ。
では落胆ばかりだったかと言うとそうでも無かった。私はまるで汚物に触れるがごとく網から捕らえた蝶々を放つと、今一度別の蝶々を狙って追った。するとどうだ、前回よりもはるかに早く容易く、蝶々は網へと呑み込まれた。まあそれでも他の子供らと比較をすれば全くの下手くそであった事は否めないが。
私は拙いながらもそれから三匹ほどの蝶々を捕らえる事に成功した。しかしまだとてもではないが、それを摘んで籠に入れる程の覚悟と度胸は持てず、全てはまた空にかえした。気がつけば私の手の平は脂汗でべとりと湿っていた。青空の蝶々はやはり、私をどこまでも嘲笑っていた。
 日が傾く前に私はこの日惣一郎氏の家へと押し掛けた。それが日課になっている事を差し引いても、私は何か彼の口から聴いてみたい事があった。得心のいかない事は必ず惣一郎氏に聞いた。それが最も適切な手段に思えた。
この頃になると、私はもう勢太を抜きにして彼と会う事の方が多かった。勢太はあちこちからの誘いも多く多忙だが、私はそうでは無い。それが幸いしてか、私は友だちのかかりあいに気遣う必要無しに惣一郎氏に会う事が出来ていた。そうなってしまえば今更そこに勢太が加わる事の方が何やら不自然に見え始め、勢太が彼に話を合わせようとしゃかりきになる程、その言動が私の鼻についた。私は元来大人しい子供であったのは先にも述べたけれど、表情と言う点に関しても私はそうであったろう。何しろ家に帰っても外に居ても私の顔色を窺う者など無かったから、自然私の表情は変化に乏しくなった。勢太があからさまに私を邪険に見る様になったのも、丁度この頃であったか。私にはそんな視線がじつにくっきりと感じられた。他は兎も角、そういったひとの感情を感じる事には私は敏く、ただそういった態度を取られた時にどう対処したら良い物かは、その時もとうとう解からずじまいであった。
私などがどうして勢太と言う優秀な友だちにそう言った感情を抱く事が出来る様になったのか、もっと以前であればそれは考えられない事態である。だがその時は私の心の中に、おこがましいとか自分の我儘さを感じる事は無かった。いつの間にか私は勢太の位置付けを大きく下げてしまっていたのやもしれなかった。勢太がそこまで感じ取っていたかどうかは知れないけれど、私は友だちがこぞって勢太の手を引き引き外出していく様を内心後ろめたくも思って見ていた。みんなはここのすぐ近くに、世にも珍しい旨い菓子が在る事を知らぬのだ、デパートメントで揃う様な使い物に眩んでいるばっかしなのだ、そう思えば多少痛快であったのも事実なのだった。
 この日惣一郎氏は呼び鈴から大分遅れて出迎えてくれた。いつもであれば決まった時刻に訪れる融通の利かない私の事、彼も承知してサッと戸を開いてくれるものなのだけれど、おかしいなと思った次の瞬間にはその理由たるものが私にもよく解かった。
開いた玄関戸の奥に続く、日中にしてはいささか暗いと思われる廊下に馴染む様にして、惣一郎氏は影の中で佇んでいた。俄かに差し込んだ金色の日光に若干目を細め、紺地の浴衣と肩掛けから伸びた腕で戸の隣の填め殺し窓に凭れた格好はひどく頼りない。口を開く瞬間に動いた喉の、筋張った様がまるで鳥の様にさらに細くなって、思わず私の視線はそこに注がれた。
 「や、いらっしゃい。どうぞお上がり」
私はもごもごと何か口ごもりつつ、どこか力なくよちよちと進む惣一郎氏の背をつくづくと眺めながら、框に上がった。
今まで洋服ばかりでゆったりと着包んでいた彼の体が、よもやこんなにも痩せ細っていたとは知らなかった。何やら顔色も、まるで透明なガラス板を幾枚も重ねた様に青白く透き通って見え、指の節々もやけに目立った。肩甲骨は腕の上げ下げに忠実に動き、何だかぎょっとする程ここ幾日かで彼の外見は様変わりしていた。
 居間は相も変わらず寂然としており、煤けていないのが不思議である様なテーブルに着くと、彼は大儀そうにして腰を下ろした。
「今時分の風邪はたちが悪い様でね、君もあまり長居はしない方がいいよ。ああ、大丈夫だ、加減は随分良くなったから」
洒落た仕草で肩を竦めて見せると、彼はすっと大きく息を吸った様に見えた。
私はどうしたものか思案しつつも、ならばかえって早く切り出した方が都合良かろうと思い、すっかり隈の浮き出た彼の両目を見据えて口を開きかけた。すると惣一郎氏は、つと己が手の平を注視し、
 「学校へはね、しばらく戻らない事になった。当分はこちらに滞在するつもりだよ」
と、まるで私の心を読んだかのごとく快活に言った。私は目を丸くしながら、その決め事がどの様な理由によるものかは解かりかねたけれど、ひとつにはその容態の悪さがあるだろう事くらいは見て取れた。
胃の病か腑の病か。何とも知れぬむつかしい名前の流行風邪かは分からねども、私はその病人然とした彼の、肉の削げた肩を見つつ、そこにある確かな壁を感じた。それは神秘的な彼の西洋人にも似た容姿をさらに霧に隠そうとする紗にも思え、不謹慎にも私には病んだその青い肌すら尊い仏像のそれにも見えた。私と彼の間には容易でない隔たりが存在し、その距離が遠ければ遠いほど、私の憧れは一層に強くなっていくのだった。しかし私は彼に近づく為の精進をして行かなければならない。何故なら、それこそ私と惣一郎氏との掛け橋なのだから。それだけは何をおいても捨ててはならない。もし心臓に焼き鏝で言葉を刻めるものならば、私は強く願ったろう。
 惣一郎氏はきっとそんな私の心を見透かしていただろう。それを思うと顔から火を吹く様だが、同時にそれは私に言い知れぬ陶酔をもたらした。対等の言葉を使い、この世には悔いる事も恥じる事も何も無いのだと、付け加えの様にさらりと言う。決して頑張れとは言わず、言外にして何かを語っている様な。私にはそれに頷く事も出来ずに、ただただ貪る様にのめり込んでいった。
 惣一郎氏の加減が目に見えて悪くなってきたのはこの日を境にしてであった。けれども彼はどんなにやつれていても、不思議と持ち前の優雅さと人当たりの良い品の良い笑顔を曇らせた事は無かった。それがどういった意味であるのかなど、愚かな私は考えてもみなかった。そしてそれ以上に私を愚か者にさしたる考えのひとつに、惣一郎氏がそうして快復さえせねば、ずっとこの町を出ずに済むのに、と言う、不謹慎極まりない思いがあった。幼いというのでは済まされぬ、どこまでも自分本位な想いに他ならないが、それでも、走っていけばいつでも会える距離に彼が居てくれるのだと思うと怖いほど嬉しかった。
 
 幼い頃には時間の流れが奇妙に遅く感じられ、あたかもそれは静止した湖の水面であるかの様な無限の営みにも思われた。満々たる水をたたえるそこには穏やかな波とくるくる表情が変わる色合いがあるだけで、永遠に流れと言うものは存在しない様で、自分と言う者がいったいぜんたいどこに浮き沈みしているものか判然としない。
ところが、私はその時時間と言う物の正体が俄かに見え始めてきた様に思えた。それは或る時は期限と言い、また或る時は際限とも言う。
 ああは言ってくれたものの、惣一郎氏が永久にこの地に留まっているとは到底考えられなかったのだ。
私は当座の安堵と共に入り混じる焦りを胸の中で混じらせて、やきもきするより近所ののっぱらへと向かった。おかげで私の貧弱な四肢は小春日和にほんのりと日焼けし、髪にはいつも汗の匂いがしていた。母親は言葉少なに、外で駆けるのは気持ちよかろうと言い、父親はふざけた渋面で私の頭を撫でくって、埃臭いと笑って言った。しかし、私には到底その汗や埃やかけっこを好きにはなれそうになかった。ぜんたい、どこがそんなに面白いと思えるのかの方が不思議でたまらず、妹のなまっちろいムクムクした両腕を見るたびそう内で呟いてみた。私には運動といったものがまるで向いていないと言う事がことさらはっきりと解かる様になったぶん、ひとつ賢くなったかな、とでも思っているしかなかった。
私にとって大事な事はたったひとつ、一匹でも多く蝶々を捕らえる事に違いなかったのだから。
 捕らえてみれば何かが変わるかとも思っていたが、それは私の蝶々に対する嫌悪感を強くした事のみに止まらず、さらに凄まじい程の怒りを新たに生み出しただけであった。それはただの怒りとは違って、こう、背筋からぞわぞわと熱いものが這い上がって、四肢を染め抜き、最後に頭をぐらぐらと沸かせる様な、どうにも手を付けられない怒張を呼んだ。しかもそれは蝶々を網に隠した時に、もっとも昂ぶった。もはや恍惚となる寸でのところでその熱はすっと引き、余韻が頭の芯をじくじくといたぶった。
怒りはいつしか攻撃的な感情と摩り替り、まるきりそれを制御する事がかなわない。自分の中の、空虚に似た味気も素っ気も無い器の中を怒りが徘徊していく様は一種の快感であった。
こいつは自分の指一本で、簡単に押し潰してしまうことが出来るのだ。やろうと思ったら塵あくたと化すまで、引っちゃぶいてやることだって出来るのだ。そう思ったら、怒りと嫌悪は最高潮に達した。だが勿論、押し潰したりなぞこの私に出来る訳も無い。血が昇っていても、そういう理性はきちんと残っていた。それでもそのときばかりは、蠕動するあの汚らしい腹や蠢く脚を潰してしまう事も容易な様に思えた。また、そういった事を思える自分に不可解さを感じつつも、一方では惚れ惚れとしていた。
 次第にこう言う気持ちや感情は強くなり、頑強になりこそすれ決して治まる様な気配は感じられなかった。
のっぱらには私の踏みつけた草が跡を作り、まるで春めく為の義務の様に数を増す花々はすくすくと育っていった。さながらそれは天井の無い蝶々たちの餌場と化していき、私の獲物は日増しに増えていった。
 学校から帰ると、鞄を放りすぐさまのっぱらへと赴くと、その日も雲の厚いやや翳った日差しの中に浮遊する蝶々たちを私は見上げた。むくむくと興奮が脳天から指先へと伝わるあの心地よさ。一方では吐き気がする程忌まわしく感じながらも、最早その手は網を離す事なぞ考えつかない。銀鼠の雲の間に間に、時折地上へと警戒無く舞い降りる紛い物の花弁が舞う図は、しっくりと当て嵌まる様で嵌らない。白、黄、青との蝶々はその光加減で時に高貴にも見え、しかし大概が破れた布切れの破片に見えた。
 どれくらい私は空を見上げていただろう。それでも空模様などは見えておらず、定めた蝶々を捕らえては逃がし、そうして首が強張ると思い出したかの様に地面の緑と土を見た。視界の反転は奇妙で、あたかも世界そのものがくるりと回転している様だった。
不意に、足元にことさら頼りない風情で飛ぶ、小さな羽根を見た。正確には、見た気がした。それはすぐにどこかに留まり、またすぐに飛び立つ為に、よっぽど目を凝らしていなければ意識にすら留まらせる事が困難なものであった。
また不意にそれが飛び上がると、私は一瞬目を疑った。それは私の常識から大分かけ離れた、小さな小さな蝶々なのであった。その蝶々は、着地すると同時に、柔らかい三角の両羽根をたたんで閉じてしまうので、それでたいそう見分けがつきにくかったのだ。蝶々は何とも薄い色の羽根を持っていた。薄紫に桃色をほんの少し足したばかりのその色に、私は一種の感動を覚えた。なんと言う事であろうか、蝶々であるのには違いないと言うのに、この儚くささやかな風合いはいったいどうだろう。それに、なんて小さく優しげな、それでいて機敏な動きであろう。
動悸が早くなっていた。次の瞬間には飛び掛り、心から夢中になって、こいつを捕まえたいと思っていた。
 あんまりに低い飛び方をするので、予想していたよりも相当、捕らえる事は難しかった。口の中で知る限りの罵詈雑言を呟きながら、その蝶々を追った。何とかかんとか網の中へと包み込んだときの、あの興奮はとても忘れられない。思い返しても臍から背から、果ては足の指さえもが、凍傷患者の様に電気が走る痛みを覚え、かつ皮膚全体を包む甘い痺れが這い上がっていった。
 嬉々として網を覗こうとした刹那、とうとう破れたその裂け目から今にも逃れ出そうとする、蝶々が見えた。
私は慌てた。それは一瞬の出来事である。今までの大きさの蝶々ならば逃れられなかったその裂け目は、丁度この蝶々にはおあつらえ向きの規模であり、私は何を考えるまでも無く、
素手で蝶々を捕まえた。
蝶々は憎らしげに身を捩じらせたが、やがて観念したと見え、大人しくなった。私は自分の指が摘んでいる物が何なのか、容易くは飲み込めなかった。
 あんなにも汚らしい、嫌らしい蝶々を今、この手で摘んでおるのだ。我と我が手で捕らえた蝶々をこうして留めておるのは、これはぜんたい、自分のいつも通りの指ではないか。どういうことなのだ。
自分は今、あの、蝶々に触っておるのだぞ。
 眩暈の中に自分が居る様な気がした。大きく頭を揺さぶっているのは、はて、どの感情であるのか。さだめし憎かろう、嫌なのだろうと思ってみても違う様な、たまさか心地よいなどという筈も無い。だのにこのぞくぞくとする様な胸騒ぎと喜びは何だろう。この甘い震えは何だと言うのか。
心の照準が目という器官を通してはっきりと合わさった様であった。奇妙にねじくれた視界は黄昏と疲労のせいばかりでは無かったろう。
あれよと言う間に、いよいよ治まらなくなったこの感情の渦は、どう形容すれば良いものか。極彩色のまどろみが始まりかけては唐突にやみ、雪白の幻になると色は形を保たない。
普段なら心地よいはずの風が吹き抜けていく。しかしその時ばかりは煩わしくて、小さなそいつを飛ばされぬ様体を丸めた。自分が今触れている物は、今までに見た事など無い様な美しい物だ、という認識だけがそう体を動かした。
 止まない震えを全身に伝わらせたまま、私はそっとそれを籠へと放った。
 
 私の標本趣味はこうして始まった。私はこの新しい種類の蝶々を初めて家に持ち帰り、しばらくの間とくと眺めた。蝶々の種としての名前は、あえて調べようとはせずに、私の中の未知なる存在のままにしておきたかった。どうやら私と言う人間は昔からロマンチストな性分らしく、苦心して作った標本をためつすがめつ眺めるたびに、こいつはもしや誰も見たことの無いどっかのお国からやってきた妖精の類ではないのかしらん、と想像を巡らせてはその中に浸っていた。
 思えば小さい頃から、私にはどこかしら収集癖らしきものがあった。それは他愛の無い木の実や変わった形の石ころ、父親のマッチの箱など、小さくてつましい物には違いなかったのだけれど、私には何よりそれらを集めてその成果を内心で誇る事が楽しかったのだ。けれど、今回はそういった私の趣向からは考えつかぬ程に趣きを一新していた。
 今までは命やどらぬ物を、しかしこれからは自らの意思をもって自由に動く事が出来る物を、私は求め始めていた。
今度の相手は生きて動くだけに止まらず、何より衝撃を感じたのは、ある意味では当然の事ながら、それは私を見ては逃げようとした。これは他に類を見ない楽しさ、面白さを私に与えてくれた。「この小さな奴ならば、何も恐れることなぞ無い」私の意志ひとつでどうにでもなってしまう哀れで弱小な、それでいて私を魅了する「美しさ」を持つちっぽけな蝶々。この時になって生まれて初めて、私は、蝶々は綺麗なのだと言う、惣一郎氏の言葉を多少なりとも理解できる様な気持ちになった。
 それからと言うもの、私の標本作りは日課となった。勿論私の気に入った、あの蝶々以外には興味を失った。あの小さな蝶々は、虫である事を再認識させられる醜悪な胴体を、目に見えぬくらいの膨らみ程度しか持たず、それがいっそう私の気に入るところとなっていた。私はあくまで蝶々と言わず虫が大嫌いで、それに対する気持ちは当初から何も変わっていない事に気づかせられた。あの小さな蝶々だけが、特別なのだった。
蝶々の標本は次第に数を増していったのだけれど、なにぶんひとつひとつが非常に細かいために、ガラスを填め込んだ箱は容易にはいっぱいにはならず、置き場所に難儀する様な事も無かった。
そのうちに、あの小さな桃色の蝶々の中にもことさら私の気に入る色合いと言うものが存在する事を知った。しかしそれは非常に稀な確率でしか捕らえる事がかなわず、偶々それを捕まえられた暁には、さらにさらに特別に用意した私の「宝箱」へと仕舞われた。はてしかし、あの宝箱はいったいどこにやってしまったのであったか。口惜しいかな、そればかりは闇の靄に包まれてしまった。
 
 しかしまぁ、こうなってくるとますます鎌首をもたげてくるのは、やはりこの私生来の臆病心。どうにも心配杞憂の類を捨て去る事が出来ずに、楽にそれからを過ごした訳では無かった。
私は次第に、蝶々への恐怖心を追加していく羽目になってしまった。
手馴れてくれば当然の事、蝶々はさながら小石を拾うくらいに楽々と捕まえられる様になって行った。
こうも易々といくのはきっと私の手が目が足が、蝶々と言う弱い生き物を虐げる事を運命と悟ったからだ。私にはその権限があり、今やこいつは私に囚われ張り付けにされる為だけに生きている。
思い上がりも甚だしいと言うべきか、当初には赤くなって打ち消した考えは、段々と疑う余地も無い様に思えてくる。そしてその心地に酔ったらば、必ず瞼に写るのは惣一郎氏の姿に他ならなかった。
 そして、私は蝶々を標本にしてしまう夜、必ず怯える様になった。何が怖いのか、何をそんなに恐れるのかと問われれば、きっと私は蒼白になって呟いた事であろう。
 蝶々の復讐が恐ろしかったのだ。
毎夜毎夜、蝶々が群れをなして私に襲い掛かる夢を見た。あの桃色の蝶々が、遠くの丘からまるで雲が淡い夕日に染められた様な色合いで、一塊になってやってくる。それは到底私の幅よりも狭く小さく写るのだけれど、次第に近くなり低く飛ぶ様を注視していれば、それが実際は小山の様な大きさの群れである事が分かって来るのだ。
得体の知れない恐ろしさで全身を戦慄かせながら、こけつまろびつ走っていくが、これがちいとも進まない。怖いもの見たさで振向けば、もうすぐそこまで奴らは迫ってきている。もう羽音が煩くてかなわない程に、その一匹ずつが分かるくらいに、今にも覆い被さろうとして飛んでくる。奴らは憎悪の塊か。それともそんな感情など一切持たず、私を生来の天敵として狙うのか。とても広い野原では私ひとりで、後ろ暗さから私はいい訳などひとつも出来ない。そのうち、一匹ずつが私の肩に乗り頭に乗り、仕舞いには全身に飛び付いた。着物の中にもあっと言う間に忍び込まれ、腹や背をぞわぞわと這いずる心地の気味悪さ。悲鳴を上げようとし、ざらざらと口内に飛び込んでくる奴らに喉を詰まらせ、涙を流しながら瞼の裏に無理に入り込まれる痛さが、まるで現実に遜色ない。
 気がつけば私の体は磯馴松の皮のごとく、茶色の干からびた一枚の屑と成り果てていた。
血も肉も何もかもを吸われておるのに、私の心はいまだそこにあって、申し訳なさと悔しさを噛み締めている。
 目が醒めてしまうと、私はひいひいと泣いているのが常で、その後は次第に自分の夢の途方の無さに呆れてくる。しかしまた、自分の脳髄の作り出すその着想の恐ろしさにひとつ震えた。
馬鹿馬鹿しいと思う反面、中々その悪夢と離れる事は出来なかった。仕舞いにはその恐怖のため夜は眠れず、かと言って眠らなければ奴らはそのうち昼間でも幻を見せた。そして私はその恐怖を除くためには、奴らをひとつ残らず捕まえるより他無いと、怖いものは全てこの手で捕まえてしまえばいいのだと、思う様になった。
 こうしてその恐ろしさとの追いかけっこが始まった。私はお陰で一日たりとも収集を怠る事が許されなくなってしまった。しかしそれでも不思議な事に、その行為に対する楽しさや面白さが失われる事は無かった。かえって痛快感を増したくらいである。私の優越感は最早蝶々無しには保つ事が出来なくなっていたのだ。元よりそんな感情なぞそれまでは名を知るばかりで得られた事なぞひとつも無かった。が、一旦覚えてしまった味は、中々忘れられるものでは無い。
 蝶々に襲われる夢の中で、私は最期の息をつくときに、必ず目にする光景があった。横倒しの視界の中、うりざね顔の幼い少女が遠くからこちらを静かに見ている。少女は成熟途中の、ますます母に似てきた妹だった。今は小さな赤ん坊は、それから何年か後の現実、まるでその夢から抜け出た様な顔かたちへと成長していった。ほんの一瞬の光景である。
 
 しでに幾度か回顧した事だが、それからと言うもの両親の私に対する態度の変化には目覚しいものがあった。父親が帰る時間には居心地の悪いくらいに身の置き所を無くしていた私が、この春を迎えてからはいそいそと玄関まで母と出迎えるまでになった。すると父親も俄然機嫌が良くなり、毎夜のごとく何かにつけて叱られるか無視されていた日々が嘘の様に感じずにはいられなかった。私の体も目に見えて成長が著しくなり、周回遅れを巻き返す様に級友たちの背丈に近づくまでになった。肘や膝が夜中ひとりでにぴしりぴしりと軋みだしたのもこの頃か。足の筋力がつけば当然腰も強くなり、日曜には今だ幼い妹のお守りをして始終背負ってばかりいた。母親も、私が急に大きくなったものだから着物の丈がおかしいおかしいと、ちょっと困ったふうで自ら仕立ててくれた事もあった。
ただ残念だったのは、両親とも、とくに母親は私の標本趣味をそれほど褒めてはくれなかった事である。父親は始めのうちこそ、よくやっただの、これは品がいい色合いだのと口を揃えてくれたものだけれど、じきに私がお熱になると、呆れたのか飽いたのか、それきり面白くも無い様子であしらった。母親のほうはからきし駄目で、遠巻きに蝶々の姿かたちを綺麗だと言う外には、一切手近で見ようとはしなかった。そのうち、彼女は私の夜中の作業を止める様にとまで言い出した。
なんと言っていたのだっけ。そうそう、むごいことはおよし。そして、丑三つ時に一心に打ち込む私の姿が、無気味でたまらないのだ、と。
私はいったい貴女の何なのだ。虫をピンで留めて眺める事がそれほど悪い事なのか。勿論私にとって、その行為は他人が思うよりずっと深い意味のある問題に違いないのだけれど、しかしそれにしたって。私は静かに静かに憤った。
私を気味が悪いと思う事だけはよしてください。これきり母さんの前には出しません。他人を見る様にしないでくださいお願いです。ほんの少しでかまわない。私を褒めてください。
 自分自身、どうして欲しかったのか明確な言葉は無かった様に思う。本当に褒めてもらいたかったのかどうかも、今はもう分からない。私はたくさんの蝶々を、全て押し入れへと仕舞いこんだ。収集を止めるだなんて事は微塵も考えなかったが、急にこの蝶々たちが私の分身の様に思えてならなくなった。私は何よりもまず、これを母親の目の届かぬところにやってしまいたかった。
 近所の友だちも、私を見る目が変わってきた様だった。みんながみんな、私が蝶々に夢中で誰ひとりとしてほかの人間と遊ばない事に疑問を感じていたらしい。そして、また以前とは若干違った意味合いで、私はまたひとりきりになっていった。私にはそれが寂しい事だとは到底考えつかずに、反対に清々とした気分でより蝶々に専念する事が出来る様になり嬉しかった。
 
結局自分の理解者はただひとり、惣一郎氏だけなのだとはっきり分かった。それは頼もしいくらいの安心感であった。
日曜の午前、自宅の庭に咲く痩せた桜が静かに揺れていた日。どういうわけか両親は所用でおらず、遠くの自動車の音以外は妹の無意味な声だけが聞こえていた。日に焼けて多少ささくれた畳に妹は大の字で寝転び、一生懸命寝返ろうとしている様が、例えようも無く可愛らしく、かつ滑稽であった。
 私はその天へと伸ばされた小さく湿った手を、柔らかく包んだ。乳臭い、いい香りがした。妹はよく太った段のついた腕をあちこちに動かすが、どうしてか一方を動かせば一方もつられて動く。私の指をぎゅうと握って離さないまま、屈託の無い瞳を真っ直ぐこちらに向けた。
春の只中、風も弱い良い日和に、縁側から滲む淡い日差しが私の背を暖める。上半身を捩ったまま、這い蹲って妹の頬に触れる。
 この子が男児であったらば、私はまた違ったのだろうか。彼女の黒目勝ちな瞳に、自分はどう写っているのか。それにしてもなんて形の良い眉だろう。唇だろう。それにも増して、なんて母さんによく似た面だろう。
なぜ彼女は生まれながらにして全てを持っているのだろう。ああ。
なぜ私にはそれが与えられなかったのだろう。これ以上どうしたらいいと言うのだ。これ以上どう頑張ればいい。
もう頑張れない。これ以上なんてとっても無理だった。せめておまえ程とは言わないから、私に言葉をかけてください。抱きしめてください。どうして、どうして。
 私にはもうこれ以上恐ろしいものなんて必要ないのに、どうして気づいてしまうのだ。
ひとりでにはらはらと零れていく涙は、すぐに乾いて消えていってしまった。
 
 蝶々の数が目に見えて減ってきた。とうとうその時期が来たのだ。私はけれどそれに気づかぬ振りをして、毎日毎日網を持って出掛けた。注意すればなるほど空気は湿り気を帯び始め、やっと捕まえた蝶々もひどい有様の物ばかりになっていた。次第に梅雨の到来を予感させる天候が無闇に続く日々が始まった。
 鬱々とした曇天は、あたかも私の胸襟を現した様で、いっそう気持ちが篭った。日に日に蝶々は姿を消し、あの可愛らしい小さな蝶々もめっきりと見なくなった。私の収集癖はどうにも冷め遣らぬままいたずらに放置されるしか無くなった。
足元がずっぽり抜け落ちてしまった様に、心許ない日々は私に不安と苛立ちしか与えてはくれなかった。私から蝶々を奪っていったい何が残ると言うのか。ひどく喉が渇いておるのに、枯れた井戸をつくづくと眺める心持。
 私は矢も盾もおられずに、試しに別の虫けらを捕まえようと試みたが、嫌悪感しか得られなかった。それだけでなく、つまらないのだ。蝶々に比べると他の虫はみな醜く、何の魅力も感じられなかった。
 自然私の日常はまた、以前の様に変わってしまった。家に居る時間が増し、その上蝶々を捕らえられない苛立ちからつまらない事でもよく塞ぎこんだ。それは変わったと言うより、戻ったと言った方が的確やもしれぬ。兎に角そんなであるから父親も母親も、以前の様に私にかかずらおうとはしなくなった。
私はまた、真っ暗な洞窟の中に隠れ住む老人になった。
 蝶々を追う事も無く外に出るのは煩わしく、かと言って屋内に居ても気の晴れる事は少ない。日に日に私は私の輪郭を失っていく様な形容しがたい不安定さの中に埋もれて行った。
それは夢とも現実ともつかぬ、何やら判然とせぬ世界の淵であった。もともと口数の少ない私は、それ以上ともなれば全く言葉を喋らない様になるしか無く、すると周囲もそれらに呼応する様に私に語りかけたりもしなくなった。私自身いったい今自分に口は有るのか、耳は有るのかと疑いたくなる様な一日一日であった。
 しかしそれでも、私には到底蝶々を忘れたりなぞ出来る訳も無かった。現にその気持ちは薄らぐどころかいっそうに強くなっていくばかりで、今まで蝶々に向けられていた気持ち全て、虐げたり愛でたりと言った気持ちは一向に発散されずにどろどろと淀んで滞るばかりとなった。
 そしてついに、押さえきれずに発露したへどろの塊は、私の幼い妹へと向けられたのであった。
 
 私は、あの可愛い妹を、たったひとりの妹を我と我が手で傷つけた。
むらむらと湧きあがる遣る瀬無さと苛立ち、言い尽くせぬ程の屈折した心の慰みに、私は。ああ。
私は彼女を、まだひとりで歩く事もままならぬ彼女を、抱え上げて石畳へと落としたのだ。
 さほど高いところから落とした訳では無い。何しろ私とて小さな子供であったのだから、せいぜいが三尺と少し程度のものであったろう。
 しかし妹は頭から落ち、鮮血をあたりに撒いた。
 泡を吹いて痙攣した彼女を母親に知らせたのは、他でもない私自身である。仰天した母親は何も聞かずに妹を抱きかかえると、近所の医院へ走って行った。まさか私がやった事とも思わずに。
我に返ってさすがに慌てた私は、何をどう言って誤魔化そうかと懸命に考えたが、父親も母親も発見した状況を言えとしか聞かなかったので、それは徒労に終わった。
はじめから私には本当の事を話す気は無かったのである。
やはり、あの時の私は、私と言う輪郭の箍が緩みきっていた。そこから大量に流れ出す汚泥は真っ先に力弱いものへと向かってしまった。
しかしその時の私はそうは思わなかったのである。
蝶々どころか、自分はそれが人間であっても、自由を奪う事は可能なのではあるまいか、そんな事を思った。ことに弱いものとなればなお良かった。
例えば老人。赤ん坊。病人。弱い者であれば、こんな自分であっても征服する事が出来るやもしれぬ。
 
 これはもう、恐ろしいと言う言葉では足らぬ。
そしてあれは真実私の事であったのだ。私自身の記憶であり、私自身の仕出かした真実なのだ。
なんと言う事だろうか。ああ、悪寒がする。駄目だ気分が悪い。もう、これっばかしも思い出したくなんぞ無い。逃避であろうとも何であろうとも、私は認めたくない。認めない。こんな、こんな子供が私自身であろうとは、とても信じたくない。でもまさか他人の記憶をこうまで仔細に、鮮明に覚えているはずも無く、やはりあれは自分の姿であったのだと、それは逆に思い知らされる。
 この私の中に、そんな異常なところが少しでも残っているのだろうか。
ああ。今頃妹はどんなふうに私を思い起こしてくれているのだろう。難しい事は言わず、口数の少ないだけのそれでもちっとは優しい兄と思ってくれているのだろうか。
私はおまえを殺そうとした事がある。あったのだ。しかし、断じて今はそんな事決して考えたりなぞしない。本当だ。お願いだ、私を許してくれるか。
 私は大人になってから妹の近くに居る事は無かった。私自身がすぐに働きに出て行った事もあるのだけれど、実際は何をどうして良いのかが分からなかったのだ。だからせめてと、嫌われぬ様にそれだけを努めた。私はおまえに嫌われたくなかった。両親の慈しみを一身に浴びて育った、そんなおまえに嫌われてしまえば、私は心底ひとりぽっちになってしまう様な予感がしていたからだ。
人間はどんなに強い事を言ったとて、心底の孤独なんぞ耐えられる訳は無い。ひとりぽっちは、何も無い。何も残らないし、残せないのだから。一度感じた人間ならば、きっと分かる。暗闇すら無い世界は、なんと寂しいことか。
 しかし妹よ。そうして考えると妙なものだ。すると私はおまえを恐れていた事になるのじゃなかろうか。恐れと愛情とは相反するものでは無いのだろうか。
ああ、おまえの健全なる四肢と笑顔ばかりが思い出される。
私はどれくらいの長い時間、おまえのその綺麗な姿を羨望の眼差しで見ていた事か。
 私はおまえが羨ましかった。
妬み嫉みすらをも愛情と呼ぶならば、きっと私は世界でいっとうおまえを愛している事になるだろう。
これは勝手な言い分だ。けれど、それでもいい。私が死する時もきっと、私はおまえを羨むだろう。おまえの全てを羨むだろう。
 何よりも、父と母の血を引くおまえが、私は心底羨ましかった。
 
 もっと前であれば、理不尽に叱られる事も多々あった。が、私はそうした以前の日々を恋しく思う様になっていた。
物言わぬ子供に逆戻った私に、両親は落胆する間も無く妹に関心の全てを注ぎ込み、私は自分に影がついている事を不審に思う程に、透明な存在へとなった。もう、何もしたくは無かったし、何が出来る訳でも無くなっていた。ただ毎日ぼんやりと、夢と現の合間を行ったり来たり。
昼間に見る夢にも夜見る夢も、焼き切れてつなぎ合わせた様な写真の映像が、止めど無く流れ続け、拡大した蝶々の乱舞を描いた。
蝶々は時間を経ていく程、ますます鮮やかさを増し、私から遠く遠く逃げていく。
惣一郎氏に堪らなく会いたかった。しかし、こんななりではとてもあわせる顔が無い。
 私はとうとう、かのひとの気持ちを裏切ってしまった。なりたかった私は、こんな自分じゃ無い。
せっかく、私に、私だけにかけてくれたあの笑顔を、私はその一切を無駄にしてしまった。私を生まれ変わらせてくれようとした、その気持ちを。
こうして鬱々としている事がよりいっそうの不義理に繋がるのだと、分かってはいても何も出来ない。私自身、どこかで淡い期待を抱いていたぶん、虚脱感はひとしおであった。
 こんな弱い自分を、彼に見せるのが恐ろしい。たったひとりの存在である彼に、愛想尽かしされてしまっては、ほんとうに私は生きてはゆけぬ。
 
あの頃の私はそうして塞ぎ込み、蝶々の標本を眺めては、思い出したかの様にまた、静かに妹をいたぶった。家人には気付かれぬ様十分気を付けてはいたが、暴露されるのは時間の問題であった。
それに私自身がそんな生活に疲れきってもいた。どうしたら良いのか、全く分からなかった。
 私はとうとう我慢が出来なくなり、決意した。
惣一郎氏のところへは、そうした様々な要因から、なるだけ行かぬ様にと心がけてはいたのだが、どうにもこうにも、私には限界が迫って来ていた。もう彼しか頼るひとが居なかったのだから。
 通いなれた彼の自宅までの道のりが、まるで何年ぶりかのごとく懐かしく感じたものである。
惣一郎氏はまだそこに居た。彼の母親が、人目を忍び世を憚る彼の歳若い母親が、幾らか疲れた面持ちで出迎え、彼の部屋へと私をいざなった。その家は今思えばやはりどこぞの妾宅であったのだろう。高い垣根はその実堅牢な牢屋の格子に違いなかった。
 私がその惣一郎氏の部屋に踏み込むのは、全く初めての事であった。二階の角部屋、日当たりは世辞にも良いとは言えぬ薄暗い一角。
扉の隙間が広がるにつれ、私の早鐘はようよう静まりつつあった。ああ、あの香り。
 畳の匂いと書籍の匂いが満ちた中、その中に僅かなる異臭があった。それは病院のそれにも似ていたし、妹の乳臭さにも似ていた。部屋の中は窓に掛けた布のほの暗さに時間までがつい落ち着いてしまったかの様な、塵ひとつもたゆとう事をしない、眠たさとはまた違う静けさがあった。間取りはわりに広く、隅に本棚と文机を揃えただけの家具が死んだ様である。
 その中央に敷かれた布団の中に、彼は居た。
案内の母親は無口で、ただ、惣一郎さんは具合が良くなく横のままである、とだけ何とか聞き取れた。私はそれに頷く。目も気も彼を追ったまま。退室して行った彼女に気付かず、残り香でそれを知った。彼の傍へと、兎角気配を殺して着いた。
惣一郎氏は仰向けに眠っていた。布団のふくらみは薄く、そこから出た首と顔のみ分かるだけであったが、それでも彼がこの前見た時よりもいっそう縮んでいる事は確かであった。
 寝息は安らかとは言い難く、ぐうぐうと喉が嫌な音を絞っていた。ときおり、その呼吸すらも乱れて、その度に血管の透けた薄い瞼が僅かに強くつむられた。頬も痩せて、表面がざらついて見え、敷き布と変わらぬ色の抜けた肌はほとんど透ける様である。
 私は彼に、この心持を救って欲しいと思って訪れたと言うのに。
彼の唇は開かれぬ気配もない。
 しかし、私は不思議にも、それでもいいと思えた。
彼の、こけてしまってはいるが聡明さは寸分も失われぬ、整った目鼻立ちを眺めているうち、次第に安心した。
それに彼が眠ってくれている限り、私は勢太からも隔離された状態で、彼をじっくりと見る事が出来た。ひとの顔なぞ対峙した時にそんなにじろじろと眺める機会は無い。しかし相手が眠って、閉じた瞼のままであるなら、そうした気遣いは要らない様に思われた。
 私の浅ましい現実から、遠く離れた彼の本体が、静かに今目の前にある。
彼自身しか持ち得ない知識と思い出の詰まった頭脳がここにあり、それを私たちに知らしめる口がここにある。手馴れた仕草で頁を手繰る手がここにあり、颯爽と歩く姿の良い足がここにある。
今はそのどれもが沈黙してしまってはいるが、それでも私なんかの様なちっぽけな人間ではとうていかなわない。完璧な彼が、今ここに有るのだ。
 彼と成り代れる事が出来たら、それはどんなに素晴らしい事か。
だが私は彼には成れない。彼の一部を真似る事が出来たとしても、彼そのものに成る事なぞ出来やしないのだ。
 悔しいと思った。そしてひどく妬ましかった。 
私の頭の中に、妹を石畳に落とした時の光景が広がった。
あまりに呆気ない沈黙。それが実は容易くもたらす事が可能である事を、その時の私はもう知ってしまっていた。
 気が付くと私は立ち上がり、彼を見下ろしていた。
 
 彼に成り代わる事が無理なのだとしても、せめて彼に関わる人間たちのひとりに成りたかった。 
出来る事なら一番印象的な人間になりたい。その為にはどうすれば。
 彼の腹の上にやわらかく片足を乗せた瞬間だった。
どこかで何かが擦れる音がした。見ると、彼は玉の汗を秀でた額に浮かべ、痩せて筋張った手を畳に這わせていた。音は、彼が畳に爪を立てるものであった。
 その刹那、私の気持ちは萎えた。自分のしようとしていた事の無意味さに、やっと気が付いた。
 
 私が彼を殺したとて、いったい彼の何を自分のものに出来ると言うのか。
 
 達観した逞しいほどの心を持った彼と私では、髪の毛ひとつとってもかないっこないのに。彼の聡明さは彼にしか無いものなのだ。そして自分は、彼にとってはちっぽけで取るに足らぬ、記憶の渦の底にも残らぬ餓鬼に過ぎぬ。私がこうして彼の傍に上げてもらえたのも勢太のお陰に過ぎず、何ひとつ私には私自身の力で彼に認めてもらう材料は無いのだから。
 やっと分かった。少なくとも私には分かった気になった。
涙も出ぬ。私より優れた人間は数多く、私はその先ずっと彼らを羨望の眼差しで見続けていく事しか出来ないのだと。
私は惣一郎氏から弾かれた様に離れた。
畳に立てられた彼の爪をただ見つめ、その色合いに蝶々を想った。
 惣一郎氏死去の報せを聞いたのはその翌日の事である。
 
 私が訪れた日の夜遅く、彼はこの世を去ったのだと言う。勢太は私に何も報せてはくれなかった。
丁度、ひとがしゃくり上げる様な雨が、降ってはやみ、また降り続いた梅雨の一日。だんだら染めの鯨幕が、真っ黒にたかる人ごみの奥にくすんで写っているのが、何やら嘘くさく、化かされている様な心持のまま弔問却に混じる。
 肩から力と気力が水の様に溶けて、立ち上る蒸気とひといきれに吸い取られていくのが、何とも鬱陶しい。そればかりが現実なのだと思い知らされる。こんなところは、惣一郎氏にはまったく似つかわしくない。誰も彼も、野蛮で粗野な、次元の低い世界で息づく別の生き物の様だ。頭の奥が痺れる。全て包めて、芝居の様な。
 悲しいだとか、寂しいだとかは実感として無かったのだけれど、言い尽くせぬ虚脱感が全身を潰しにかかっていて、それを引き摺るので私は精一杯になっていた。
 通夜の日であると言うのに、勢太は私とは一切目を合わせない。
俯いて悲しんでいるのには違い無かろうに、愚かな私にはそれが彼の優越感の表れに感じ、悔しくてならなかった。
遺族しか並べぬ座に、勢太はちゃんと居る。私は惣一郎氏どころか、勢太にすらかなわないのだ。
 雨の夜は空気が粘つき、読経も幾らか湿気て聞こえた。私は早々に母の手を離れ、弔問客に混じった。
彼の死に顔だけでも近くで見たかった。
 私が大人の群れをもぐって棺に近づいた瞬間に、後ろから手を引く者があった。勢い任せに振向くと、冷え切ったその手は勢太のものだった。
勢太は疲弊し、泣き腫らした目を私に向けてあるいは細めながら、ただ見つめていた。
まるでそれ以上私を兄の傍へは近づけさせぬとでも言う様な視線が、手の力が、私を凍らせた。未練という最後の気力すらも吸取られていく様な、眩暈が、私に絶望を与えた。
 私はただ、自分より力弱い者を見つけたかったのだ。
惣一郎氏は力強い者だった。勢太も無論そうである。
彼らは兄弟と言う血の結束をもって切れぬ絆を繋いでいるのだ。それだのに、この私には何も無かった。実の両親を持たぬ身の上である私には、一切の確固たる繋がりは何も無かった。
一度は諦めかけていた事だ。それだのに、期待を抱かせてくれたのは、あなたでは無かったか。
 老人、赤ん坊、そして病人。
力弱い者ならば、自分の物に出来るのだ。ひとが恐れるものは、ひとがその手中に収めれば良いのだと。
 
惣一郎氏の死に顔くらい、私にくれてやってもいいではないか。
 
あの時見た惣一郎氏の桃色の爪も寝顔も、私しか居ない場所で見たそれらしか、私にはもう何も残っていないのだ。もう、私ひとりに向けて喋ってくれる様な事は、彼は出来なくなってしまったのだから。だから、だからせめて私だけのものが欲しかったのだ。
 私は勢太の手を振り解き、雨粒を切って走った。跳ね上げては蹴り潰される水音と、遠く後ろになっていく線香の匂いしか、闇夜に感じられるものは無かった。地面を踏みしめる感覚だけが唯一この世との関わりに思え、いっそ絶ってしまいたいくらい全てが煩わしく、凝っていた。
 ひどく惨めだ。燃え切らぬ滓にも似て、かえって浮き立つ失う事の怖さ。何も残らない様でも、少ないばかりにかかる未練と執着が、しみじみと思われた。この世とは決して切れられぬ。じゃ、尊ぶものは何かと探っても、落胆しかそこには無い。くるくると、私はひた走った。走りながら、私はどうして集めた蝶々の羽根をああ扱ったのかを、ゆっくり考えた。答えにはもう、気が付き始めていた。
 標本にする以外の蝶々たちは、とくにその色合いの気に入ったものばかり、羽根だけを毟って仕舞っていた。
そしてその色合いにはどれも共通性があった。好みの色合い風合いが似か寄る事はあるのだろうと思っていたが、それはきっと、少しの間違いがあった。
 あれは、あの色は、彼の爪の色であった。
 
 家に帰り着いた私は、ぐっしょり濡れそぼったまま部屋に閉じ篭った。
そして集めて仕舞って置いた、羽根の入った缶を開け、いつもの様にそれをひとつ摘む。
 
 私はそう、いつもの様にして、それを、飲み込んだのだった。
 
 彼が苦し紛れに立てた爪にそっくりな羽根は、私の口腔から胃袋に至り、そうして私の一部となってゆく。
 惣一郎氏はひょっとしたら、力弱い者であったのやもしれぬ。今となってはそうも思う。
しかし私が嫉妬し、欲しがった彼の一部は思い出と共に咀嚼され、私の臓腑と混じり合ったのだ。
 私にはそれで十分だったのだ。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
一筋の、銀鼠色した雲が刃物の鋭さの月に掛かっていた。列車の中はほの暗く、ランプの明りが弱弱しく揺れている。少し床が振るえれば、影は長く短く曖昧に形を変えた。
 目を開けたとき、私はひとりであった。向かいのご婦人も居ない。不意に空気の冷たさに首の裏が粟立つ。
長く夢を見ていたけれど、眠っていたのとはちょっと違う。気持ち疲れている様で、しかしすかっと胸が晴れた様な、ぼんやりした体で、私は車窓に映る己をまじまじと見る。詰っていた管がすっきりと抜けた。そんな気分だが、何とも寂しい。僅かに苛立ちと悲しさが、その底辺にまだ燻っている。
 頭の上にある網棚の、そこに乗る鞄の金具がちかりと光を反射した。線路は畦道を大分走り抜けたと見え、まだ些か遠いものの瓦斯灯が目に付く様になっていた。寂しい河川敷を越え、眠った様な閉じた商店の軒を横目にする。風に凪ぐ木々の影がその後ろから、こう、正体の分からぬ形に入り乱れて何やら恐ろしげに映るものの、寒い様な冷たい様な月明かりに透けるとたちまちに小さく見えていった。
 ぜんたい、解かってしまえばどうと言う事は無いのやもしれぬ。が、解かってしまえばそれきりなのだ。
けども今となっても私は蝶々を好きになる事は無く、小夜子の頭の傷は残ったままである。現実は確かにそれきりになってしまった。
何年振りかに訪れる彼女の家にはまだ紫陽花があると聞いた。かつて自分も住まっていた家であるのに、もう他人のものの様で、私が覚えていると思われるうちの幾つかを、それでも残そうと努めてくれる彼女に感謝している。季節ごとにまめまめしく頼りをくれる妹の存在を、この歳ともなれば頼る外無い。
 鞄の中はガラクタで膨らんでいる。どんな土産が喜ばれるものか分からず、道行きあれこれと詰め込んでいったらば、自然大荷物となってしまった。これでは旦那に田舎者とくさされ、小夜子が恥をかくやもしれぬが、性根がそうであるのに加えて私はたいそうに珍しい物好きであるから、つまらない物をついつい買ってしまう。兄としては随分情けないのだが、そうしていつも小夜子には呆れ半分に窘められていた。この道中でも港に寄った時分に舶来物の何やら面白気な物を随分と買った。
 暗い車内に目が冴えてくると、ひとの気配に一瞬だけ身が縮んだ。通路を挟んだ隣の座席に、影がある。
月明かりは黄色く青白く、中々見通せぬのだけれども、何と言う事は無い、まだ昼に見た少年が手許を電燈で照らして本を読んでいたに過ぎなかった。最前まで耽っていた私は、押し黙ったままの彼に気が付かぬだけであったのだ。
 懐中電燈を慣れたふうにして傍らに立てつつ手文庫を読む彼の面は今だ分からず、それだけに今まで乗り合っていた事の親近感も湧き、好ましく見えた。詰襟が夜汽車に不釣合いなのも面白い。冷えてきたので上着を着たのかしらん。
急にぶるりと悪寒が走り、私も肩掛けが欲しくなった。無理も無い、食事も摂らず長い事同じ姿勢をして夜半までである。膝も腰も凍ってしまった様で、網棚がひどく高く思えた。立ち上がった時、僅かに少年の首がこちらに動いた様に見えたのだけれど、多少なりとも揺れる列車に私はそれどころでは無かった。
鞄を手繰り、抱えたままでゆっくり席に戻る。尻の体温がまだ残っており、何とも妙である。鞄は半ば口の開いたままで、ぎっちり詰め込んだなんやかやでひどく重たい。洋書の類をたくさん買い込んでしまったせいで、ちょっとやそっとでは持ち上がらない様な有様である。こうなってはどうやって先ほどこれを抱えて来られたのか、ちょっと不思議になってくる。さすがに網棚に上げるのは無理であったから、近くの熊の様な男に頼んでやってもらったのだが、そいつは軽々と上げていたものだから安心してしまったのだ。
 書籍の下敷きになった肩掛けを引き摺りだすと、首から覆う様に肩に巻き付けた。樟脳の匂いがつんとし、嫌いでは無いこの匂いに顔を埋めた。
 遠いところまでやってきた私の、ここが故郷なのだと言う感慨は思っていたよりも少なかった。
それともあの町へ行けば、あの家を見れば、少しはそうも思えるのだろうか。しかしあまり自信が無い。垣根の多い、野原の多い町であった。が、離れてしまうとどれもが夢の様。良くも悪くも思い出ばかりであった。
 少年の姿を横目で見る。ぼんやりと、頤の線が月光に霞んでいてはかない。ふと誰かに似ている様な気がし、その横顔に焦点を合わす。がたんがたんと列車が音を立てるのと、文庫の捲られる音とが微妙に重なりずれ合い、耳の奥でこだまする。
 詰襟の章に見覚えがあった。もっと近くで見てみたいと、ちらりと思うがそれも妙だった。ああ、あの懐中電燈がもう幾らか明るければ見通せたものを。いかんせん月の後光に差された上でのこの暗がり、何かの予感がし、次第に動悸が早まる。
 せめて手許を見たい。いや、手許さえ分かれば確信出来る。冷え切っていた体が、芯に熱を持った様でじんわりと暖かくなってきた。
 鞄の中のガラクタに目を転じる。まだ夢の淵にでも居るのだろうか、血管の浮いた皺だらけの手が震えてかなわなくなっていた。自分ではそんな気持ちは無いのに、胸がどきどきとやかましいったらない。
妹への土産のつもりで買い込んだ物の中に、舶来物の絵図鑑があった。皮の装丁で、元は続き物であったらしいのが背表紙の数字で分かる。四隅の鋲が鈍く照り、買い叩くには惜しい様な仕立てであった。なぜにそれを手に取ったのかは分からない。またどうして買ったのかも分からない。強いて挙げればその中の絵が非常に緻密で、写真と遜色無い様に思えたからである。妹が好きそうだと、買ってみてから思った。そうでなくば、どうしてこの私が昆虫の図鑑なんぞを手に入れようか。普段であったら頼まれても嫌である。でも、この立派な外見につい惹かれた。舶来物は洒落てはいても中々に安物らしい品がまだまだ多く、港町の中にあってこれは逸品じゃぁ無かろうか、などとふと思ってしまったのである。そういうところが田舎者で貧乏臭いのだと、小夜子は笑って言うのだろう。
しかし。
私とこれが巡り合った事は、もうずっと昔から決まっていた、むしろ必然の事項であったのだとしたら。
 
 これが夢で無いのなら、私にはするべき仕事がある。
 絵図鑑を手に取ると、私はもう一度少年の影を見た。やっぱり小夜子には諦めてもらおう。これはここにあるべきではどうやら無いらしい。
 立ち上がり、揺れに気を付けながら彼の元へ行くと、短い距離が更に近くなり、動悸はますます早まった。そしてふと、思い出したのだった。
そうであった。彼は毎年この時期になるとあの町へ帰って来るのじゃなかったか。
垣根とのっぱらの多いあの町へ、冬を待ちわびる弟のもとへ。
 ああ、何と言う事だろう。彼の指が爪が、こんなにもはっきりと見て取れるだなんて。もう手を伸ばせば十分に届く近さだと言うのに、私はつくづくと彼を眺めていた。ただここに居るだけで空気が清浄になる様な、この特別な風。それをまとうのは彼以外に有り得ないではないか。
彼は、静かに私を見上げ、月明かりを煌々と背負っている。捧げ物の様にし、抱えていた本を両手で持って差し出した。私の方はもうこんなに年老いてしまった。私はこうしてここにいる。彼の両の瞳がじっと見つめていた。
 「邪魔して済まないね、この図鑑を君貰ってくれないか。荷物が重くてかなわん様になってしまって。捨てようとも思った物だから、何も気にせんと使ってくれればこいつも幸せだと思う」
 夜が白む。それともさっきの瓦斯灯か。やっぱり彼は聡明そうな面をしていた。私の間違いなんかでは無い、ああ、なんて白い肌だろう。人好きのするその表情は変わる事が無い。
心の時間は何も隔たれてはいなかった。証拠に私は今、こんなにも彼を尊く思う。何が変わるというものか。
 彼はにっこり笑った。もう、私にこの本はいらない。私には必要が無い。彼が持つべきものなのだと、よく分かった。
綺麗な桃色の爪が表紙に触れ、ぱらりと一枚を捲るとよく通る透明な声がした。
 
「あなたは蝶々がお好きですか」
 
 真っ黒な瞳が私を見透かす様で、これから彼が後に出会うひとりの子供の事を、私は想った。
 
昭和某年師走壱拾五日、
 これが私と岡島惣一郎氏が交わした、最後の会話である。




 

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