親に隠れて打つ注射の意味もなくなってしまってから半年。初の一般人宇宙旅行の審議についてうるさく言うニュースに次いで、時代錯誤なタイムカプセルが見つかったとアナウンサーは言った。
埋め立て中の東京湾から、子供一人ほども入れるサイズの箱が上がったらしい。検査したところ二十年前くらい昔のもので、金属が腐食してうまく蓋が開かないとのこと。心当たりのある人は、今月中に役所まで取りに来い、IDカード持参であれば、簡単な質問の後に引き渡す。なお、探知機で調べたところ中身は金属であったが、硬貨や貴金属の類ではないこと等が知らされた。
ローカル放送でそのニュース映像を見た僕は、その錆びた箱がどこかで見たことのある物のような気がしてならなかった。
ひとり寂しいリビングで、はたと思い当たる。
あの蓋の剥げかけた装飾と、全体的な印象は、父の棺と同じではないだろうか。
半年前に見たばかりの真空型の棺を思い出す。
紫外線警報が鳴っている。これが止んだら、暇つぶしに役所まで行ってみようかと思った。
判を押して引き渡された箱は、相当に大きかった。ちょっと見るだけのつもりで来たところ、有無も言わせず書類を書かされて、夕方には郵送すると言われた。
父が死んでただ広いだけになった家には、置き場所なんていくらでもあった。箱はやはり父の棺をひと回り小さくし、古くさせただけのような気がする。同じ真空型なので、海水が入り込んでいる心配は無いそうだ。どうしたものかと考えていると、夕刻に配送屋が来て、大きな荷を部屋まで担ぎいれてくれた。二人がかりの割には、案外軽そうである。
「ID照合をお願いします」
請われて答えた。
「男子、宮下真帆、越箕高等学校3年、ナンバー0124990」
「ありがとうございました」
去っていく男たちを見送って、梱包を解く。かなりいい加減な包み方で、早く厄介な荷物を片付けたかった役人の気持ちが窺えた。
箱は一度洗浄されたらしく、大した汚れは無かったが、言われた通り蓋が開かない。しかしそれは腐食のためというよりは、鍵がかかっているように思える。
誘われるように、父の棺の鍵を右側面の窪みにはめてみた。
やはり鍵穴はあり、持ち歩いていた鍵はぴたりとその穴の中に収まった。
手ごたえがあり、僕は鍵を引き抜く。
抱えにくい蓋を苦労してスライドさせると、中には白い布に巻かれた大きな塊が横たわっていた。
多少ひるんだのは事実だが、せっかくなので開いてみることにする。
僕のこういうところが理解できないと、亮太に言われたことを思い出した。あのときは結局壊れたテレビだった。あの新聞紙の中も、この布の中も、分からないうちはどれも一緒だろう。
布は真空状態にあったため、手触りも真新しい。滑るように捲っていくと、一瞬ドキリとするものが見えた。
細い糸のような束。
艶やかな黒さといい、質感といい、髪に間違いない。しかし中身は金属だとニュースでは言っていた。
深呼吸をするが腐臭は無い。したところで蘇るはずはないので、どんどん捲っていった。
最終的に出てきたのは、中学生くらいの男の子の人形だった。
実寸の上、極めて精巧である。肌なんか柔らかそうで、つついてみる。僅かな弾力は皮膚そのもので、血色もいいというのに、ひどく冷たい。
着ているものは濃紺のありふれたブレザーで、特にエンブレムは無い。まさか背中には無いだろう。
これからの長い夏休みを、僕はもの言わぬ人形と過ごすことになるらしい。
翌朝目覚めると、リビングから物音がした。一瞬錯覚するも、僕は一人暮らしなので父でなければ僕しかこの家には居ない。父の夢を見ていた。
起き上がって毛布をどける。シャトルの古びたポスターと、スチールのデスクがカーテンからもれた陽射しに黄色く光っていた。デスクの上のグリーンシロップが歪な緑を投影していて、僕はまたベッドに戻る。
また物音。咄嗟に警報機を枕もとから手繰り寄せる。テレビがついた。足音。裸足のようである。
警報機を袖に隠し持ったまま、静かにリビングへと向かうと、テレビの前に逆光だが人影があった。ちっとも僕に気付いていない。僕はソファを飛び越えざまサイドボード上のペティナイフを掴み、瞬時に不審者の喉笛にナイフを当てた。
「テレビは楽しいかい」
聞いてみると、侵入者はまるきり丸腰なことに気が付いた。
「ええ、ひさしぶりだから」
侵入者はそう答えてこちらを向いた。僕はナイフを逆手に持ち替えて、パジャマの胸ポケットにしまう。
「どこから入ったの」
人物は真っ直ぐ僕の後ろを指さした。
「玄関です」
黒い艶のある髪、シミの無い肌、ブレザー。昨日の人形そっくりだ。
まさかと思う。
「部屋にあった金属の箱が無いね。どこへやったの」
少年か少女かよくわからない体格の人物はまだテレビを見ている。
「どこへ、やったの」
「溶けてしまいました」
「どうして」
「もう、いらないと判断したから」
「誰が判断した」
「タイムカプセルが、です」
そのとき丁度、ニュースであの箱のことを報道していた。持ち主が知って、持ち帰ったとされている。
「どうしていらないなんて」
僕は人物と並んで床に座った。僕のほうがひと回り、体が大きい。
「中身が出たからです」
ニュースが終わり、人物はようやく僕を見た。
緑色の目。クリーム色の肌。卵型の顔のなかに、そんな部品が詰っている。
「おまえは、生きていたのか」
あの箱のなかで。
「さあ、生きていたのかもしれません」
「どうするの、これから」
外は明るい。鳥が鳴いている。この暑いのに。
「約束があるのだけれど、今はまだ無理のようです」
「リンゴ食べるか」
僕は立ち上がって冷蔵庫へ向かう。
「ケンヂはリンゴが好きです」
振り返る。にこにこ笑っている姿は確かに少年だった。
「ケンヂっていうのか、おまえ」
少年の後ろに映るコメンテイターの名前が、大写しになる。そこには太った中年の男が居て、ネームプレートに神田健二と書かれていた。
「はい、ケンヂと言います」
「そう。よろしく、ケンヂ」
僕はリンゴを手に取った。
「なあ、最近顔見ないけど、どうしたんだよ」
いつも前触れ無く訊ねてくる級友の亮太が、赤く染めた髪をかき上げて言った。
「一昨日クラスで会ったばかりだ」
小さなカウンターを勧めて、アイスコーヒーを出そうと冷蔵庫を覗いている僕は、グラスを三つにしようか迷っていた。
「違うよ、倉庫に来ないじゃないか」
気短な亮太らしく、スツールに腰掛けてもそわそわしている。注射を打ったばかりなのだろう。僕に喋りかけながら、テレビの前にいるケンヂをちらちら見ていた。
「何か言われたのか」
僕は冷えたグラスにパックのアイスコーヒーを注ぎ、亮太とケンジに手渡す。ケンヂは作った笑みで礼を言った。
「言われて来たわけじゃないぜ、それにあの人たちは悪いヤツじゃない。ただ、真帆のグリーンシロップもそろそろ切れているんじゃないかと思って」
そう言う亮太の額には細かい汗が浮いている。外はまた紫外線警報が出て、気温は摂氏40℃を超えた。亮太は眉と唇に開けたピアスをいじりながら、コーヒーをいっきに飲み干した。
「僕のはまだある。それに近頃あれを打つと頭が痛い」
「それははじめのうちだけさ。そのうち、もっと良くなる。頭痛なんかなくなって、気分がいい」
途端に顔色が良くなり、快活に話し出す。
「それに、このあいだエメラルドシロップも試した。あれは最高だったぜ、効き目も長いし」
「原液じゃないか。受験前に頭が悪くなるぞ」
言いながら僕も向かいのスツールに腰掛ける。
「おまえさえまた倉庫に来れば、分けてもらえる」
半身を乗り出し、シロップによる恍惚を思い出したのか、うっとりとした目で僕を見る。僕はコーヒーを一口飲む。
「考えておく」
そう言うと、亮太は僕の頭を抱えてキスをしようとする。僕はグラスの中身を亮太の顔にぶちまけた。彼にはこういう癖がある。
「ひでえな」
亮太は我に返ったように目を見開いている。
拭くものを取ってこようと立ち上がると、いつの間にかそばにケンヂが立ってタオルを差し出していた。僕は少し驚く。
「ありがとう」
ずぶぬれの亮太がケンヂを睨む。ケンヂは微笑み、また定位置のテレビ前に戻った。
「おまえが来なくなったのは、管理局に情報を漏らしたからだっていうやつがいるんだ」
僕はあたりを一通り拭き終えると、笑った。
「それは亮太だろう」
亮太はみるみる顔を赤く染める。
「知らないからな、俺は忠告しに来たんだ。あの人たちを怒らせると、怪我どころじゃないかもしれない」
「ありがとう、ところでアップルパイを作った。食べる?」
亮太はぽかんと口をあけたまま僕を見、やがてひとつため息をついた。
「おまえ、料理上手いもんな。もらうよ」
「じゃあ切ろう」
「だから真帆のことが嫌いになれないんだ、オレは」
「僕もだよ」
三人分のパイを切り分けて、無言で食べる。ケンヂが小さく、「おいしい」と言った。
亮太が帰ったあと、玄関から戻るとケンヂが食器を運んでいた。ブレザーは脱いで、丸い襟のついたシャツと紺のズボン姿になっていた。
「いいよ、あとは僕がやるから」
横に並んで、食器を洗浄機にかける。ケンヂは僕を動物のような目で見上げる。
「月へ旅行に行けるなんて、素敵ですね」
「ああ、サテライトが完成したら行ける」
彼が本心でそう言っているのかは分からない。彼の口角は常に微妙に上がっている。
「ニュースで建設中のコロニーを映していました。ケンヂが覚えている頃は、月はただ眺めるだけのものでした」
僕は洗浄機のボタンを押す。
「月へ、行きたいのか」
まだ僕を見上げている彼の瞳孔はガラスのようで、瞳は冷え冷えと緑色が冴えていた。
「行けたら、素晴らしいですね」
そう答えると、彼はカウンターから僕の知らない小瓶を取り上げる。
「お客様の忘れ物ですね」
それはグリーンシロップをもっと鮮明に、もっと深い色合いにした液体が10ccほど入っている瓶だった。
「ありがとう、今度僕から返すよ」
ケンヂが僕の手の平にそれを乗せる。そのとき、彼の指先から血液が滴り落ちた。
「何で切った」
細い指を広げさせる。左手の親指に、小さいが深い切り傷がある。確かにさきほどまでには無かった。
「すぐ、とまります。これくらい」
口元だけで笑うと、彼はそっと手を引いた。ペーパータオルを取って渡すと、彼は要領よく傷口を、ためらいなく拭った。
僕は僕の指についた彼の血を見る。少し、色が薄く、軽い感じがした。彼は僕の視線にすぐに気付いて、僕の指も丁寧に拭く。
「リンゴ、もう飽きたか」
冷蔵庫に収まっている、大量の果物のことを考えた。ケンヂは僕を見上げ、にっこり笑う。
「いただきます」
そういえば、こんな笑顔はなかなか見せない。何がどう違うのかよく分からないが。
ケンヂはテレビの前に戻る。僕はリンゴの皮を剥く。
ふと、父親の顔が思い浮かんだ。父の目も、濃い緑だった。
そんなことを思っているうちに、手が滑り、ナイフで切った。我に返って傷を見るが、何も無い。ナイフの背があたったようだった。
ケンヂはただ黙々とテレビを見ている。
その夜、中々眠れなくなり、外で銃声のような、長く鋭い音が響いて僕は頭痛の前兆を知る。父の幻がシャトルのポスターに重なったので、僕は月明かりのなか、身を起こした。
二つの緑色の影に手を伸ばし、半ば習性で薄いグリ-ンの方の小瓶から細い針で緑のシロップを吸い上げる。
液体は僅かに減り、僕の血管は小さく腫れてそれを受け入れる。かすかに背を反らすと、背骨から冷たいものが流出するような快さが襲ってくる。しばらく感じ得なかった衝動が、瞼や腰で駆ける。
僕が注射を打つ意味は、明らかに身辺に人間が増えたことに間違いなく、しかしどうしてそれが引き金となるのかは分からなかった。
ケンヂの存在は、僕に家族を連想させる。
今は父親の部屋で寝ている彼の寝顔が突然見たくなり、僕はそのまま部屋を出た。
斜向かいのドアを開くと、彼は奥のベッドで眠っていた。近づくと、昂揚感でゆらゆらと揺れている神経が、また一歩足を進めようとする。
「起きているんだろ」
「・・・ええ」
澄んだ返事がある。僕はベッドの淵に手をついた。
「おまえがいるのに、この部屋は暖まらない」
「すみません」
ぱっちりと目を覚ました彼は、光りを帯びたような緑色の目で僕を見上げた。
「あやまらなくていい」
「眩しくてねむれませんか?」
確かに眩しい。僕はこの月明かりで目を覚ましたのか。
「おまえ・・・ケンヂはなんで起きているんだ」
「ケンヂも眩しいです。頭のなかが、いろいろなものでひしめき合っている」
彼はこめかみを押さえて、無表情のまま窓を見る。僕もつられて外を見た。
「あんなものに、僕たちは行けるのか」
彼は微笑んで頷く。
「ええ、真帆さんは行けます。そのうち、移住する」
「僕はあまり興味がない、月は」
「なぜですか」
「月から見た地球は大きすぎる。青い月を見上げる気持ちで、僕は月でも目を覚ます。どこにいっても僕の恐怖は変わらない。覆いかぶさる大きな地球が、ただ怖い。僕は老いるってことは分からないのに、死ぬことだけは怖いんだ」
昂揚感は失せ、妙な懐かしさが匂う。
「老いてもあなたがあなたであるように、真帆さんはどこへ行っても真帆さんです。恐怖が変わらないように、あなたを取り巻くものも変わらない。石の匂いも新たな大地の渇きも、すべてあなたのもの」
彼はややだるそうに半身を起こすと、瞬きをしない目で月を映す。
「あの星は、あなたのものでもある」
僕は彼の左手の傷を見る。ふさがり切らない複雑な盛り上がりが、赤く爛れている。
「おまえは行かないのか」
彼は僕へと視線を移行させると、いつもの笑みを浮べる。
「ケンヂは残念ながら、行くことができません」
「なぜ」
「そんな気がします」
「おかしな奴だな」
「すみません」
なんとなく眠気が訪れて、僕は冷たい彼のシーツに父親の感触を思い出す。
彼が横へずれたので、僕は当然の様に並んで毛布を被った。
眠りは唐突に訪れる。間際に燐光が迸った。若干、緑を帯びたような燐光が。
連日猛暑が続き、休暇中の学校から警報と様子を尋ねる旨のメールが届いた。
毎日は明るい朝と、眩しい夜に分けられ、着々と近づくように見える月の脅威が僕の睡眠を妨げた。
そしてその度に、グリーンシロップは減り、僕の真夜中はケンヂの真夜中と重なる。ケンヂは眠らない。僕は彼の寝顔を見ていない。
亮太も言う通り頭痛は無いまま、僕の血管だけが薄く爛れた。僕が朝気分良く目覚めると、ケンヂはどことなく弱って見える。まるで僕の体内の毒素を吸い出したように。 彼は顔色も変わらず、ただ僅かに痩せ、瞳を虚ろにさせた。
あの素晴らしい緑の瞳は深みを増し、今や黄色味は失せて針葉樹の緑を映す。そしてテレビの前で何時間も動かない日も多かった。
僕は冷蔵庫を覗き、口を利かない同居者に聞いた。
「おまえの約束って、まだ果たせないのか」
彼は大儀そうにこちらを向いた。
「今のニュースで、クイズに答えると旅行が当たるらしいですよ」
「いったい誰との約束なんだ」
「きっと真帆さんなら答えを知っていると思います」
「おまえはどこから来たの」
冷蔵庫を閉める。やっと数の減ったリンゴが、戸の中でごろんと転がった。
「月へ、行けるんですって」
ケンヂは僕を見て、少し微笑んだ。緑の目に、少し黒い点が見えた気がした。僕は諦めてテレビの側へ行く。
「僕は行かない」
ケンヂの冷たい指が僕の腕に触れる。
「新しい資源もたくさん見つかったそうです」
「そんなの移住を促す為の謳い文句さ」
「もう、イギリスでは大半の方がコロニー対応の訓練を受けているとかで」
「だからなんだと言うんだ」
僕は遮った。
「そんなに月へ行きたいのか、それならおまえが行けばいい」
自分の血が速度を上げて体を巡っているのが分かる。ケンヂは相変わらず冷たい瞳で僕を見、僕以外のものも見ている。
「真帆さんは、なぜそれほどに月への移住を拒むのです」
じっとそそがれる視線は、浮き出た黒い斑をその緑に映す。僕は彼の透明な肌に、無数のそばかすを見つける。
「お父様が、ここに残られるからですか」
僕は自分の中の冷たい塊が、喉の奥に詰るのを覚える。
「おまえは、何を知っている」
ケンヂは無表情のまま、薄く唇を開いた。
「おかしなことを言いました。すみません」
「あやまるな」
「でしたら、ケンヂのために、あのチケットを当ててください」
「おまえが行くのか」
「はい」
「一人でか」
「はい」
僕は陽気なテレビ番組を眺め、メモとペンを持って戻った。
「どんなクイズだ」
「移住計画の、発案者の名前です」
そう言って、ケンヂはにっこりと笑った。
毎年、気温が上がる。毎年、夏が長くなる。僕は雪というものを見たことが無い。
父は雪国育ちだと聞かされた。そこにはまだわずかに冬が残っていて、紫外線を遮るほどの曇天から、眩しいものが舞い降りる。
父はどこへ行きたかったのだろう。あのシャトルは誰のためのものだったのだろう。
冷たい棺。海の底深く沈んでまで、見たかったものはなんだろう。そして。
見たくなかったものはなんだろう。
珍しく翳った天空から、一条の光りが差す。カーテンを戻すと、風が揺らした。僕は海風を初めて感じる。そういえば風なんて、ここしばらく感じていない。窓を開けないからだ。
グリーンシロップが切れる。
「あいつはどこに行ったんだよ」
亮太が山羊のような目で部屋を見回す。漂白されたような瞳。エメラルドシロップのせいだろう。このところめっきり視力も衰えているらしい。
「テレビの前だろう、今日はなんだ」
卑屈そうに背中を丸め、緩慢な動きでグラスを手にとる。
「これは」
「酒。父の田舎から送られた最後のリンゴを漬けたんだけど、まだちょっと浅いから、よかったら砂糖を入れて」
「酒の味なんてわからねえよ、もう」
舌を突き出す。鮮やかな緑に染まっていた。
「そうか、あいつはもう居ないのか」
「テレビの前だろう・・・。大丈夫か、おまえ」
僕は亮太と向かい合うようにスツールに腰掛ける。彼の発音は不明瞭で、近づかないとなんと言っているのか聞き取れない。
「・・・真帆、オレがこの前忘れていったシロップ、試したかよ」
山羊の瞳孔が収縮する。落ち着きが無い。
「置いていった、の間違いだろう。なんだ、返してほしいのか」
「違う。けど、おまえは試してないようだ。ちくしょう」
深いため息。亮太は崩れ落ちるように、テーブルに突っ伏した。
「もう、朝か夜か、分からない。全部グリーンに見える。いや、もうそれにも慣れちまったけど。問題はさ、サテライトに行けなくなるってことさ。審査でひっかかっちまったんだ。ウイルスだよ。無菌じゃないと、シャトルに乗れない」
僕は自分の分の酒を注ぐ。ゆっくりと口に含むと、青臭い味がした。
「意外だな、お前も月に行きたいか」
亮太は僕の手首を掴む。反射的に振りほどこうとするが、そのあまりの冷たさに気を殺がれた。
「あと半年で、みんな汚染される。オレは、死んでもいいが、何も分からなくなるのは嫌だよ。昨日のことも、好きな服も、忘れるなんて」
「みんな嘘さ。移住を斡旋するための・・・」
「あのシロップを返せ。今ならまだ、お前は間に合う。オレを見ろよ、もう指が動かない。自分で打つことすら出来ないんだ、やつらは乗員を減らす為にシロップを・・・」
僕は立ち上がり、食器棚を開く。小瓶の中で揺らめく濃緑の液体を翳して叫ぶ。
「僕も打った!何度も、何度も!頭痛だって今はもう無い。手遅れだっていうなら、僕も同じだ。今更何を言うんだ」
亮太は目を見開いて、首を左右に振る。次第にそれは激しくなった。
「嘘だ。お前は打ってない!オレには分かる」
「本当さ。嘘をついてどうなる。僕は月へなんて行きたくはない。この地球に居たいんだ。たとえどんなになっても、僕は地球を離れない」
「どうしてだ。なぜみすみすチャンスを捨てる。おまえ、あの学者の息子だろう?他の誰が行けなくたって、シャトル計画の家族は必ず移住する規約だろう!」
「なぜだ、それは僕の意思ではない!父さんの、あの人が勝手に決めた規約だ」
「お前に生き残ってもらいたかったんだろうよ。頼むよ、行きたくたって行けない奴だって、居るんだ。ここに」
亮太は呆けたような表情になり、浮かせていた腰を下ろす。僕は立ったまま、呟いた。
「なら、なんで・・・父さんは自分の棺を地球に残したんだ」
亮太はどこかを眺めたまま、一筋の涙をこぼした。緑色のそれは、すぐに乾いて消えた。
「そんなこと、知るか」
「お客様は、もう、お帰りですか」
隣りにケンヂが居た。しきりに目を擦っている。具合が悪そうに見える。
「いつもの奴さ。ごめんな、起こして。眠ってたんだろう」
ケンヂはこのところよく眠る。まるで死んだように。
「郵便が、届いていました。よかったですね」
熱でもあるのか、震えた指で不器用につまんだ封筒には、なにやら厚みがある。
「・・・当たったのか。嘘みたいだな」
中身はシャトルのチケットだった。クイズの当選者宛ての一枚きり。
「嘘じゃ、ないですよ」
弱弱しく言うと、ケンヂは咳き込んだ。僕は背中をさすってやる。
「大丈夫か、薬でも飲むか?」
それにこれはお前の物だ、と言ってチケットを差し出した。ケンヂは断るでもなく、受け取るでもなく、ふらりとソファに倒れこんだ。
「おい」
「いいんです。これは、あなたの、身代わり。高濃度の、エメラルド・ウイルスは、生体にも、危害が、あります。あなたは、健康でなければいけません」
何を言っているのか。うわ言か。
ケンヂの顔を覗き込む。山羊の目が、見返す。
「約束が、果たせそうです。あとは、海に」
「なんだと、分からない」
ケンヂが緑の涙をこぼす。
「博士との、約束です。あなたを、無事に、サテライトへ」
ケンヂを海に・・・。そう繰り返す。
「海がなんだってんだ。行ってどうするんだ」
ケンヂの肌には無数のシミが浮き出ている。良く見ると、首筋には細かな皺が走っていた。
「この星では人間は生きて、いけません。放射能も、紫外線も、和らぐことがない。あなたは、ただ一人の、人間。子孫を」
「意味がわからない」
ケンヂから、するはずのない腐臭がした。
「お父さん、ケンヂは約束を」
呟いたきり、彼の体は重くなったままだった。
亮太はシーツの上で小さく、固くなっていた。市内の病院は、強烈な紫外線と放射能で感覚系統を破壊された患者が列をなし、加えてコンピュータ・ウイルスにメインシステムを汚染された重症患者のみ、ベッドを与えられている。
乾いて、虚ろな友人は生き残った回路を繋いで、なんとか機能していた。
皮膚組織は剥がされているので、頭部の半分はコードや管が露出している。
物を言おうとするが、ままならない。言語野システムの損傷が激しいらしい。皺の余ってだぶついた皮膚が蠕動している。
「月へ、いきた、い」
「そうか。残念だったな」
僕は彼の薄くなった髪をなでてやる。
「あいつは、居ない、な」
「ケンヂか」
つい、今しがたケンヂの体を海に沈めたところだった。彼の体はしばらく浅瀬を漂ったあと、何かに引き込まれるかのように消えていった。
「おまえ、と、そっくりな、顔。気味が悪い」
「ケンヂが?僕に?似てたか」
「そっくりだ、まるで、かぞ、くみたいだ。オレ、は、くやし・・」
僕は少し微笑む。似ていたのか。そうなのかもしれない。
僕に髪をなでられながら、友人はシャットダウンされていく。
「キス、を」
体を屈めて、長いキスをしてやった。友人は、長い夏の終わりを見ることは無かった。
何となく気付いてはいた。僕にはアルバムがあるからだ。
ふつう、成長するアンドロイドは居ない。まま作り変えることがあるだけで、僕は自分もそうなのだと思っていた。
人間なんて、僕は知らない。
父さんの名前が思い出せない。父さんは海の底で、見るものを選んだわけじゃなく、土に、水に還ろうとしたんだろう。
僕は月に行くべきなのだろうか。
それとも、家族の待つ海へ戻るべきなんだろうか。
宇宙船ノアは、灰色の未来をなすりつける相手を待っている。
訪れることの無い朝、実ることの無い果実、生まれることの無い生命。
父さんの用意した未来。ケンヂが促した未来。
老いることの無い住人に囲まれて、僕は何をすればいいのだろう。
僕はまだ、迷っている。