麗らかな春の日、人も通らない森の神社で、なにか話声が聞こえる。
汁気の多い声や、がしゃがしゃとした、いがらっぽいものまで様々である。暇な人間がもしこの荒れた神社の鳥居を潜りでもしたら、きっとあたりをくまなく見まわしただろう。
季節の花と、どこからともなく運ばれてきた種子が芽生えた土の中に、ポツリと建った神社は、人間に忘れ去られて久しかった。だから大人はもとより、子供でも近づかない。
以前はまれに猟師や参拝者がやって来たが、それもいつしか途絶えた。
今はもう、傾いたぼろ屑のような神社と、好きに咲いた花と、好きに生えた草たちが、こすれあって春の日差しに揺れていた。
と、色の剥げ落ちた鳥居から、ぼそぼそと、声がする。
聞き取れないくらいの小さな声が、そこかしこで囁き合う。
だがそれも今のうち。
夜が更ければ、神社は青白く灯るのだった。
黄昏たころ、菜の花を掻きわけて、葛の木の下に女が座り込んでいる。
女は青く光っている。
ゆっくり瞬くような光を発し、膝の上の小さなものを大切そうに抱きかかえている。
次第にまだ肌寒いような夜気にさらされ始めると、女はいっそうそれを抱きしめた。
うっとりと何かを撫でる女に、獣が近づいた。うっそりとした黒い毛に覆われた大きな獣は、唸り声を上げている。その体は女と同じように青く光っていた。
「ウグメ、また人の子をさらったな」
獣は唸りながら言葉を発した。熊のような体に、猛禽類の翼とかぎ爪を持ったその風体は、いかにも恐ろしげであるのに、女は気にも留めない。
「ちょうど腹が空いていたのだ。寄こして食わせろ」
獣のよだれが地面にまで糸をひき、女が抱えた赤子を覗き込む。
「触るんじゃないよ、この子はあたしんだ。わいらはどっかで犬でも食ろうておけ」
女は獣にそう言うと、赤子をあやしながら睨んだ。その眼から青い火花が散る。
獣は退屈したように後ろを向いたが、残した尾は未練らしくずるずると地を這った。
あたりがすっかり暗くなったころ、どこからともなく異形のものたちが現れ始めた。
青く光る彼らは増え続け、いつしか神社のまわりは異様な青い炎に埋め尽くされていった。
人間のようなもの、獣のようなもの、またそのどちらでもないようなもの。
様々に会話をし、笑い合っている。どこからか酒を調達したものもいるようで、酒宴にも似た陽気さが春の夜風を暖かく見せた。
その明るげな輪がそこここで出来あがったとき、美しい女がついと立ち上がって、赤子を抱いた女のほうへと歩いて行った。
「ウグメ、その赤子はどうした」
美しい女は和装のまま湿った土に膝をつく、真っ白で危ういほどの太腿がちらりと覗ける。
「ああ、ヒノエンマ。この子はねえ、捨てられていたんだ。池のほとりの花畑のなかにね、ひとりぽっちでぽつんと。あんまり愛らしいんで、あたしの子にしようと思ってさ」
ウグメ、と呼ばれた女の腰巻は、よく見ると赤い。乾いていない血糊がべったりと下半身を覆っていた。
「花畑の中、だって。おおいやだ、縁起がわるいね。釈迦もそうやって生まれ落ちたというではないか。それにその赤子はもうずいぶん大きい。運が良ければ一人でも生きてゆかれる。捨てておしまいよ」
そういって、ヒノエンマは細い眉をしかめて袖で口元を隠す。
「それじゃあこの赤子は飢えて死んでしまう。あたしは自分の子が授からなかったんだ、せめてこの子を抱いていたい」
ウグメは血に染まった自らの腰巻越しに、腹を撫でさすった。
ヒノエンマは呆れたように言う。
「おまえが抱いていても、この赤子はいずれ死ぬさ。新鮮なうちにそこのわいらにでもやっておしまいよ。それからね、これからは連れてくるなら若い男がいい。逞しいのがいいねえ」
そう言うと、興奮したように息を荒くした。顔つきが尖り、着物の下から幾つもの狐の尾が現れる。
「これ、なにをやっている」
「おしら様」
女二人に声を掛けてきたのは、馬の顔をし、人間の体に清潔な衣をまとった物の怪だった。
「生臭い、と思うたら、人間の子ではないか。ヒノエンマ、食ろうてはいかんぞ、わしは肉食は好かん」
おしら様はそう言いつつも、ウグメの抱いた赤子を覗き込む。
「いい子じゃ。しかし腹がすいている。このままでは夜明けを待たず、死んでしまうな」
「そんな」
ウグメは悲しそうな顔をして、馬面の物の怪に迫った。
「どうすればいい、おしら様」
「ふむ、乳か柔らかい食い物が必要じゃな。ちょうど今宵は夜行じゃ。農家の牛でもひとつ借りてくればよかろう」
おしら様がそう言うと、ウグメは嬉しそうに赤子を掻き抱いた。その様子を見て、ヒノエンマが舌打ちをした。
「いいのかい、おしら様。人間の子がこのようなところにおっては、いずれ我らの瘴気で死んでしまう。それにあたしにはなにやらこの赤子が不吉に思えてならなんだ」
「そうさな、長い事おってはよくないだろう。しかし、この子供はどうやら捨てられたようじゃ。おおかた、おまえさんと同じ生まれなのかもしらん」
おしら様の言葉に、ヒノエンマははっとしたように、ウグメの抱いた赤子の股を撫でた。
「女子か。丙午生まれなのかもしれぬな」
「ああ、丙午生まれの女子は災いを招くと言われる。捨てられる赤子も多いと聞く」
「そうか」
ヒノエンマは溜息をつくと、ウグメに言った。
「あまり入れ込みすぎるなよ。いずれその子は人の手に返すか、我らで食らうか、いずれかじゃ。分かっておるのだろうな」
ウグメは聞いているのかいないのか、赤子を大事そうに撫でながら、首を縦に振る。
「ようし、なれば夜行じゃ。おおかたみなも揃ったようじゃ」
おしら様の掛け声に、ほかの物の怪どもが立ち上がった。
大きい者、小さい者、みなが威勢よく声をあげ、口や眼から青白い炎を噴き出した。
「ゆくぞ、ゆくぞ」
「人を食ろうてやるぞ」
「百鬼夜行じゃ」
口ぐちに吠え、物の怪たちは鳥居を抜け森を抜け、街へ向かった。行列は長く、陽気だった。
東の大路を目指し、碁盤の目のような街を様々な物の怪が歩き走った。
土蜘蛛は老婆の顔からおびただしい白髪を振り乱し、長い蜘蛛の脚で道なき道を走った。
鬼火はあちこちに現れては消え、みなの足元を照らす。
叺親父は袋を振り回し、油を絞るために子供を追った。
それぞれに囃し、踊り、寝静まった人の街を練り歩いた。
屋敷があれば覗き込み、牛車があれば食い散らかした。
バリバリと何かを噛み砕く音、何者かの悲鳴、嘲笑。
月より明るいものが無い闇の時刻は、人でない者の住む世界であった。
それは朝日が闇を洗い流すまで、延々と続く。
ひとしきり騒ぎ、運の悪い人間や動物をその腹におさめ終わると、物の怪たちは街を後にする。
それぞれが自らの近しい物や場所へ帰ると、とくに居場所を定めない者たちだけが、また神社へと戻って行った。
朝日に照らされ始めるころには、物の怪たちの姿は日にとろけて薄くなる。
ウグメはぼんやりとしてきた体で、さらってきた牛の乳を搾って赤子に与えた。
赤子は力なくそれを吸い、ウグメは辛抱強く与えつつづけた。
神社に傾いて生えた葛の木の下で、うっすらとしたウグメの姿と、力無い赤子の姿は、いつか春の日差しに漉されて、産着の赤子のみとなった。
あたりの菜の花が、その赤子を守るように、そろそろと小さなそれに覆いかぶさっていった。
ふたたび太陽がその姿を隠す頃、菜の花に守られた赤子がぬっと手の平をそこから突き出した。何かを掴むように手を泳がせている。
その手を握り返す別の手が、橙色の夕闇の中に現れた。
ほっそりと白く美しい手、豪奢な牡丹柄の袖がふくよかに揺れている。ヒノエンマは赤子の手を握りながら、土に屈み、白い面を曇らせる。
悩むように赤子の腹をもう片方の手で撫でながら、産着の中にその手を滑らせて言った。
ヒノエンマは赤子の下肢を掴み、さらに表情を曇らせる。
「男ではないか」
そう呟くなり、ヒノエンマは自らの足首を強く掴む。そこにはうっすらと矢傷が残っていた。
そんな春の日も湿り気を帯び、季節が穏やかに移ろう頃、人間の子はすくすくと元気に育っていた。縮こまっていた手足が伸び、もはや赤子とは呼べないくらいに成長をとげていた。その様子を見、おしら様は首を傾げる。
「急に大きくなりよった。もしかしたら、この子は人の子ではないのかもしれん」
土を這い、すでに乳を必要としなくなった子のために、今夜の夜行では米を奪う計画がなされていた。
「どうするのだ、ウグメ」
おしら様に問われたウグメも困ったような表情をしていた。
「あたしが欲しかったのは、赤ん坊さ。もうこの子は赤ん坊ではない。人間のところに返してやってもいいと思い始めているのだけど」
子供が大きくなり、すでに興味を失っているウグメは、世話もないがしろになっていた。
それに代わって面倒を見ていたのは、ヒノエンマであった。
おしら様はその様子を不思議がっていた。
「ヒノエンマ、おまえさんは若い男をたぶらかすのが好きだろう。今度の男はちいと若すぎやしないか」
冗談混じりにそんなことを言うと、ヒノエンマは戸惑った顔をする。
何かを言いたげに口を開くが、結局言わない。
もうひとつ、おしら様が気になっていたことは、子供がまったく言葉を発しないことであった。
「普通、このくらいの子供ならば何かひとつくらい喋ってもよさそうなものじゃが」
子供はたしかに大きくなり、健康になっていった。
「もしかすると、人間の側におらぬと言葉はなかなか覚えられないものなのかもしれん。どうだ、ウグメ、ヒノエンマ、もう気がすんだだろう。そろそろ人の手に返そう」
その言葉に、ウグメはあっさり頷いた。
しかし、ヒノエンマはまだなにか思い悩んでいる様子である。
そんな表情ではあったが、ヒノエンマは意を決したように、おしら様に向かって言った。
「わかった。しかし、今夜の夜行を終えてからにしてほしいのだ。あたしには少し、気になっていることがある」
その言葉に、おしら様は深く頷いた。
「よかろう。夜行ののち、子供を東の大路にある寺に預けよう。もう暖かくなっておるし、子供も体力がついておるから、死ぬことはないじゃろう」
おしら様はそう言って、馬の顔をブルリと振った。
そのとき、後ろで聞いていたわいらが不満げに唸りをあげた。
「おのれ、ほんとうに返すというのか。せっかくの子供の肉だ。用済みならば、わしにくれてやってもよかろう。うまそうだ」
耳まで裂けた真っ赤な口から、牙を剥いて威嚇する。いつしかまた集まり始めていたほかの物の怪どもが、それを面白そうに眺めていた。
「わいら、この子供は勘弁してやってくれないか。ウグメもヒノエンマも、すっかり情が移ってしまっておる」
おしら様が諭すように言うが、わいらは聞かない。
「うるさい爺だ。わしは食いたいときに食いたいものを食う。ヒノエンマ、その子供をさっさとよこせ」
大きな翼を広げ、熊のように逞しい脚で地面を掻く。ヒノエンマもそれを受けて、獣のように地に四つん這いになる。口が尖り、着物の下から狐の尾がいくつも広がった。
「この子に触れたら、ただではおかない」
フーッと威嚇をし、ヒノエンマも吠える、その口からチロチロと青白い炎が吐き出された。
その様子にまわりの物の怪どもがはしゃいで囃したてる。
「やってしまえ」
「食いちぎれ」
「血を飲ませろ」
騒ぎ立てる物の怪どもに、ヒノエンマは一喝した。
「ここはあたしの稲荷だ。忘れたか。この子を食おうとした者はみな、追い払ってやるぞ」
そう言うと、周囲は白けたように大人しくなった。わいらも鼻白んだふうに翼をたたむ。
「ふん、妖の身で子の母にでもなったつもりか。つまらん」
わいらの捨て台詞に、ヒノエンマはひとつ小さな火を吐いた。
その夜の夜行は、わいらを始めとして先ほどの憤懣を発散させるようににぎやかだった。夜の暖かさが増してきたにつれ、出歩く人間たちも増え、物の怪は様々にそれを襲った。
満月の大路には、逃げ遅れた牛車がそこここに散らばり、物の怪は恐ろしい音をたてて牛の肉を食い、血をすすった。
助けを求める人間の悲鳴に、慄いた屋敷の住人は戸を固く締め、地獄のような百鬼夜行が過ぎ去るのを、札を握りしめて祈った。
そんな異形の群れの中、ヒノエンマはただひとり、群れから離れてある屋敷へ向かって言った。
大路から離れたその屋敷には、出歩く者もない静まり返った闇夜があった。
ヒノエンマは青く光りながら、確かな足取りで屋敷の門にたどり着く。
懐かしむような面持ちでその門を見上げ、匂いを嗅ぐ。
抱えてきた子供を門の下に優しく置くと、子は寝ぼけ眼でヒノエンマを見上げた。それを人差し指で静まるよう制すると、懐紙を出して一筆したためる。それで手頃な小石と、神社の葛の葉を一緒に包み、ヒノエンマは勢いよく放った。石を包んだ懐紙は屋敷の軒を叩き、庭に転がった。
それを見届けると、子を一瞥し、ヒノエンマは全身を青い炎に巻かれ、白い狐の姿へと変貌させた。
高くひとつ鳴き、白狐は屋敷から去った。
その後、稲荷神社では相変わらず物の怪どもが陽気にさわぎ、なにひとつ以前と変わらない風景が続いた。
葛の木は夏を迎えて花を咲かせ、あたりは甘い香りに包まれていた。
鬱蒼とした森に囲まれた神社は梅雨を越えて繁茂した草花に満ち溢れ、人の気配もなく物の怪どもの青白い炎に瞬いている。
そういう年を何年も迎え、あるとき葛の木の下に佇むヒノエンマに、おしら様が声をかけた。
「どうしたヒノエンマ、気の抜けた顔をして」
美しい面をぼんやりとさせていたヒノエンマに、おしら様は杯を手渡し、酒を注いでやる。注がれた酒は燃えており、杯の中でゆらゆらと炎を揺らした。
「おしら様、いや、なんでもない。古傷が痛んだだけじゃ」
そう言って、酒をぐいとあおる。白い頬がわずかに赤みを帯びる。
「以前、猟師にやられた傷じゃな。どうれ、見せてみい」
ヒノエンマの足首には、すっかり癒えて薄くなった矢傷が残っている。
この傷は、何年もまえに神社へ踏み込んできた猟師につけられたものだった。
そのとき、偶然に参拝していたある人間の男がおり、狐の姿のままであったヒノエンマは、男に助けを求めた。
男は猟師から狐を匿い、かわりに猟師と揉めることとなってしまった。荒っぽい猟師に傷を負わされた男が、身なりのいい若い男であることに、狐の姿をしたヒノエンマは気がついた。
なにやら捨て置けず、男が目覚めるまで介抱した。人間の女の姿になり、男が目覚めたときに驚かないよう、気を配った。
今にして思えば、どうしてそこまでしてやったのか、ヒノエンマ自身理解ができなかった。身分の高い男は好きだったが、傷の手当てなどしてやる性分ではなかった。
男の目が開いたとき、すぐに消えるつもりでいた。そしてそのとおり、すぐに立ち去った。
それがどうしてか、男の事が気になって仕方が無くなった。
数日して、ヒノエンマは男の屋敷を訪ねた。
男はそれが人間の女であると信じて疑わず、気がついたときにはヒノエンマもすっかり自分が物の怪であることを忘れてしまっていた。
たぶん、惚れてしまったのだろうと思う。
恩返しなんて柄ではなかった。しかし、男の側で生活することは楽しかった。
ふとしたときに、自分に子が出来たことに気がついた。
ヒノエンマは子を産み、育てようとした。だが、人間の姿を四六時中保つのは難しく、あるとき着物から銀糸の束のように流れる尾を、男に見られてしまった。
子を置いて、ヒノエンマは稲荷神社へと帰った。
「物の怪は、時間の流れがゆるやかじゃからな。おまえさんが1年2年おらずとも、気に留める輩も少ない」
おしら様はそう言うと、手酌で酒を注ぐ。
「おまえさんが戻って来た時、なにやら事情がありそうだと思った者はわしくらいじゃろう」
「あの子、あの子を産んで二年がたつ。よもや、成長が止まっていたとは思わなんだ。やはり、物の怪と人の間で出来た子は、なにか違うのじゃな」
ヒノエンマの言葉に、おしら様はほんの少し笑った。
「もしかしたら、体は赤ん坊でも、自ら母に会いに来たのかもしれん。よかったではないか、また会う事が出来て」
「男のところに子を返してから、もう何年だ。今度は無事に成長しておるのだろうか」
神社では酒宴が大いに盛り上がり、これからの夜行にそなえて気炎をあげていた。そのざわめきに押されたかのように、おしら様が立ち上がる。
「知らん方がいい。もう人の子だ。これからどんな形で出会おうとも、あれ以上の幸せはあるまい。忘れるのだ」
その言葉に、ヒノエンマは古傷をひとつ撫で、立ち上がった。
大路に向かう百鬼夜行は闇夜に不吉な光を放ちながら、転がるように進む。
屋敷の戸を鳴らし、池の鯉を飲み込もうとする者、恋路に走る牛車に頭から食らいつく者、様々に欲を満たした。
鬼が棍棒を振いながら、前方遠くを走る牛車に眼をつけた。
「たいそうな牛車だ。人間が大勢おる」
口から炎を噴き出して、揚々と走りだした。
それを見ていた別の物の怪が、訝るようにその牛車を見つめて言った。
「あれは近寄らんほうがいい。どうやら神力を持つ者が乗っているようだぞ」
その言葉に、鬼はにやりと笑う。
「そんなもの、恐るるに足らん。どうだ、従者も子供と年寄りじゃ、心配無い」
しかし、そう言って牛車に襲いかかろうとした鬼は、突然動きを止める。
「おかしい。おかしいぞ。たしかにおったはず」
走り寄ったとき、従者の子供と眼があった。
子供は牛車の中に声をかけた。すると忽然と、牛車は消え去ってしまったのだった。
「おかしいぞ。けったいな」
ずいぶんうろうろとあたりを探すが、ついに牛車は見つからなかった。
「いやあ、化かされた」
悔しそうにこぼす鬼に、別の物の怪が笑って言う。
「だから言ったろう、あれは人であって人ではない。我らと近しい人の類じゃ。生半可じゃ食う事はできん」
「ほう、そんな人間がおるのか」
「加茂忠行という陰陽師がおるそうじゃ。きっとそれにちがいない」
悔しがっていた鬼も、すぐに諦めてしまうと、今度は戸口のゆるい屋敷へと身を躍らせて飛び込んでいった。
その顛末を、後ろでひっそりと見つめる物の怪がいた。
狐の姿をしたヒノエンマであった。
ヒノエンマは確かにその牛車を見ていた。隣に立っていた子供も。
電に打たれたように、たしかに見ていた。
子供も恐らく自分を見ていた。
たまらなくなり、ヒノエンマは高く鳴いた。切ない声は闇夜を切り裂くように、鋭く響いた。
それからさらに時間が流れ、物の怪どもはよくない噂を聞きつけた。
どうも、戻り橋のところに厭な屋敷が建ったというのだ。
「どうやら腕の立つ陰陽師の屋敷だそうじゃ」
「おお、加茂忠行の弟子だというあの陰陽師か」
「清明という名らしい」
つい先日、新しいその屋敷を襲おうとした物の怪が、そこで痛い目にあったらしい。噂では、その陰陽師は物の怪を恐れず、飼い従えているということだった。
「ほんとうに人なのか」
「いいや、狐の子だと言う話だが」
ぼんやりとした噂話を、葛の木の下でヒノエンマは耳にした。
もしかしたら、いずれまた会う事もあるのかもしれない。そう思った。
そのとき、子は母を分かるのだろうか。
「辛気臭い」
おしら様にそう呟かれ、ヒノエンマは笑った。
「もう、どうでもよいのだ。いずれ訪ねてくる気があれば、会うこともあるだろう」
「そうか。まあいい。さて、今宵の夜行は戻り橋を避けた方がよさそうじゃ」
物の怪どもはよだれをたらし、吠えながら、立ち上がった。
「さあ、百鬼夜行じゃ。ゆくぞ」
威勢よく炎を吹き上げると、物の怪どもはいつものように、信太の森を後にした。
季節はまた夏に差し掛かり、神社の葛の木は花を咲かせ、あたりは甘い匂いに満ち満ちていた。